暮らしをブラッシュアップ

住居内のある場所に、昔スコットランドで買った小さな版画を飾っていた。

湿気か経年劣化のせいか額裏側に3ミリ位の隙間ができているのに気づいていたが、ずっと放置していた。

手にとってよく見てみると、もう修繕するよりも額装を変えた方が良いとわかった。

思い切ってかなり小さい額に入れ替えて、飾る場所も階段のニッチ内に変更した。

たったこれだけのことだが、やってみると不思議と達成感と満足感を得た。

 

自分としては「それは突然起きた」としか言いようがないのだが、約4年に及ぶコロナ禍のいつの時か、突然「気力の衰え」を感じた。

年齢のせいかもしれないが、そうとも言い切れない。

厄介な出来事に遭遇したことがきっかけだったかもしれないが、正直そこまでのダメージは感じていない。

加えて長年の乗馬習慣で、持久力も体幹もそこそこ養われていると思っていた体力には自信があった。

にも関わらず、「気力の衰え」は容赦なかった。

だからもう更年期(40〜60歳位?)に起こりうる不調だとしか考えられなかった。

月に2〜3日鎮痛薬のお世話になる不調は以前からもあったが、ヘルスチェックをしても何かに引っかかるわけではない。

病は気からというが、根源の「気」がぐらりと揺らいだ感覚だ。

「気力の衰え」というのは私の場合、端的に言えば「何をやるのも面倒くさい気がする」のと「何をやっても(かつてほどは)楽しくない」の2点に集約される。

この現象にはすごく焦った。

 

馬に乗っているか手入れをしている時は、以前と変わらず機嫌よく体調もすこぶるいい。

だからと言って(自宅で飼っているわけでもないのにわざわざクラブに出向いて)四六時中、馬にばかり逃避しているのもどうかという思いが強い。

「中高年になったら(なっても)何か夢中になれることを見つけよう!」的な言説は多く流布しているが、ある種の「依存への誘い」のようにも聞こえる。

偏見かもしれないが、自分の中で「消費的行動」「生産的行動」とか区分があって、消費活動が多ければ多いほど満たされない気持ちになると思っている。

一つのことだけに「人生の残り時間と気力」を捧げたいとも思わない。

気力の衰えに苛まれている身にも関わらず、さまざまな種類の行動をバランスよく嗜みたいという思いもまだある。

それに何かもっと「やり忘れている何か」があるような気もずっとしている。

 

そんなことをつらつらと考えているが、「気力の衰え」を身にしみて感じた私が、同時に震撼しているのが「時間が経過する速度」が1.5倍ほどにも感じることだ。

掌から砂が漏れ落ちるように(この表現は石川啄木が初出とみて正しいのだろうか?)、時間がどんどん経ってしまう。

この現象自体は昔から言われていることなので知っていた。

でも実際に体感してみて「これほどまでに!」と叫びたくなるほどだ。

あまりにも恐ろしいこの現象に太刀打ちする方法を考えていたのだが、今のところたった一つしかない。

それは「自分の行動、考え、情報を文字で記録する」という古典的な方法だ。

これから先の「予定」はスマホのカレンダーに入れているが、「過去」はアナログなやり方にしている。

始めた頃は「記録することなんてそんなにないだろう」と思っていたが、そうでもない。

「大窓を清掃するか、業者に電話しなきゃ」とか「糖朝に中華粥を食べに行きたい」とか、どうでもいいようなことも書き出す。

 

これを続けているうちに、それまで「次第に不便になっていたこと」や「ちょっと気になっていたけど放置していたこと」に気づくようになる。

その過程で、版画を収めていた微妙にガタついた額を入れ替えたというわけだ。

願わくば、自分の「気力の衰え」=心のガス欠も回復するように、と思う。

おそらく気づかないうちに錆びついてしまったのは、暮らしの中の「モノ」に反映された「自分自身」なんだろう。

そして、この記録を始めてからは、不思議と「恐るべき時間の流れ」も少し食い止められている気がしている。

更に以前だったら思いもしなかったDIYにまで手をつけようとしている。

「気力の衰え」と「時間の流れ」を戦いながら「やり忘れている何か」を探し当てるべく、今日もペンを握りしめて手帳を開く。