ブルース・リウとセミと幸福なショパン

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Youtube で視聴できるブルース・リウのインタビューは、フランス語のものは時々チェックしている。

ついでに複数言語における、自動音声翻訳の処理の進化を2年前から定点観測している。

ところで、ショパン・コンクールの覇者になることは、スターダムにのし上がることと同義だから、演奏活動にも増して、インタビューに追われることになってしまうのだろう。

コンクールから約2年になるが、このピアニストへのインタビューはいつも、いつも、いつも同じことの繰り返しだ。

当のブルースさんもAI のように慣れた調子で、他で聞かれたのと同じような質問に、他で答えたのと同じようにすらすらと答えている。

このインタビュアーも自覚があるようで、

「もう1000回も同じことを聞かれていると思うのですが、音楽家になった経緯を教えて下さい。気楽にでいいので...」(7:43~)

などと申し訳なさそうに苦笑いしている。

質問者は Marie-Céline さんという、南フランスとモナコの音楽界を専門とするジャーナリストのようだ。

2023年8月南仏ラ・ロック ダンテオン ピアノフェスティバルの際のインタビュー。

このインタビュー動画には、夏の野外フェスティバルという環境ならではの話題に加えて、特ブルース・リウが他では(多分)明言していない「本音」が一言あって、興味深かった。

 

セミの大合唱に悩まされるブルース・リウ

 

この動画が初めから終わりまで(途中で少々鳴き止むが)セミの声がBGMになっているのだが、ピアニスト泣かせな音量で大変だったようだ。

このピアニストは冗談を言ったり人を笑わせたりすることが好きなようだが、やはり「お笑い」においては素人だから、本人が意図した笑いよりも、このような偶発的に発生した事件の方がずっと面白みがあると思う。

インタビュー自体が「セミの話」から始まる。

南フランスの夏の風物詩であるセミの大合唱は、日本で暮らしている人間だったら好ましいか、最悪でもスルーできるだろう。

でもセミが生息していない地域に暮らす人にとっては、騒音以外の何ものでもないようだ。

セミ(英語では cicada 発音はスカーダまたはスケイダ)はフランス語では "cigale(スィガル)" 。

日本では「アリとキリギリス」として知られるラ・フォンテーヌの寓話に La Cigale et la fourmi というのがある。

La Cigale, ayant chanté

Tout l'été,

cigaleは夏の間ずっと歌っていて

でもこれが本当にセミだったら夏の間に死んでしまうと指摘されている。

だから、この"cigale" はやっぱりキリギリスとしか考えられない。

そもそもセミという生き物を知らない「非・南フランス人」はセミが何なのかも分からないらしく、cigale はラテン語の語源の意味と同様「鳴く虫」全般に使うことがあるようだ。

 

セミの声)

Bruce Liu :きれいなところですよね。

セミの声)

Marie-Céline : ええ、きれいですね。で、セミ

セミの声、以下同)

B : ええ...(耐えるの)がんばってます...

M-C :セミと樹齢数百年のすばらしいセコイアの樹があって...

B : でも昨夜のコンサートの後半には止みました。21時か22時ごろには鳴き止んだので。(0:17~)

周辺の景色の話題を振られたが、樹齢がすごいセコイアは完全にスルーし、セミの件だけに反応しているところに、事の重大さが表れている。

"chanter(英語 sing)" どころではない音量のセミは、それでも自分の演奏時間までには "ils ont arrêté de crier"(叫び止んだ)と言っている。

調子に乗ったインタビュアーが、

M-C :(セミが鳴き止んだ後は)カエル(の大合唱)が続きませんでした?

B : いや、聞こえなかった。(カエルは)どっかにいった(disparu)...(笑)

こうしてセミの「騒音公害」の件から始まったインタビューだが、セミが鳴き続ける中、後半になっても、また自虐的にセミに言及している。

M-C : (前略)何によってエネルギーを取り戻していますか?水泳などだとおっしゃいましたが。

B : 他にもたくさんありますよ。南仏ならではのものを楽しんだり。えっと、それから...これは初めてのことでしたが、セミと一緒にね...(M-C: なるほど。)セミ、いいと思いますよ。初めは気が散って不安になりましたが、セミはいいと思います。それにだんだんと静かになりますからね。夜9時に演奏する頃には。夜になると気温も下がって、どんどん静かになってきて、まるで大きなデクレッシェンドのように、最後まで集中させてくれます。(11:20~)

やはり余程セミの絶叫がストレスだったようだが、それも「予期せぬこと」として楽しみつつコントールして、自身のエネルギーとして受け入れている。

クラシックの演奏会と騒音といえば、1950年代に伝説の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが来日して地方公演の際、ホール近くの「国鉄」が通過する音がうるさいので「あの鉄道を止めたまえ!」と叫んだ、とかいう話を子どもの頃に聞いたことがある。

演奏家にとっては、電車もセミもカエルも、気が狂いそうなくらいの騒音だろう。

 

ショパンコンクールでの新しいショパン解釈

 

ブルース・リウがショパンコンクールで披露した「陽気で幸せなショパン」という斬新なアプローチ。

本人曰く「メランコリックでポエティックで愛国心あふれる」というのは、確かに刷り込まれた(ステレオタイプな)ショパン像だ。

ちなみにブルースさんは「自分はショパンのような出身地への強い感情はない」(5:00~)そうで、楽観的なタイプだと語る。

この話も、いつも、いつも、いつもインタビューで聞かれては答えている内容。

でも、この動画で明言した短い言葉の中には、これまでははっきりと聞けなかった表現があった。

ピアノの演奏だけでなく、数多くの趣味も含めて、あらゆる物事において「バランス」が大事だとして、自分は演奏に入る前に作曲家がどんな人か、そしてその時代背景を知るために本を読む。

次に注釈を読んで、それから技術的なことに入るというやり方をする。

ここまでは既出だと思う。

でも、今回の動画ではこうも述べている。(下線部)

M-C : ショパンについてとっても上手にお話しされます。ショパンの話をすごく語りますよね。

B : 良い演奏をするには、構想や出来事について知らないといけません。また今日ではあまり顧みられないこととか。なぜかというと、みんなただ演奏、演奏、演奏となりますが、音楽的なこと以外に、どんな背景があったかといったことも知らなければならないんです。私は作品を習得する前はいつもどんな作曲家で、その時代に何をしたかについて本に目を通します。鍵盤に向かって没頭するのは技術的なことです。だから実際何があったのかなど、すべてからざっと知識を得ています。(この点に関してdonc)みんな音楽以外の「宿題」をやることをちょっと怠ってしまうんですね。 (5:48~)

私は昔ピアノと声楽を習っていて、勿論ロマン派の作品もやった。

でも圧倒的に古楽が好きなので、

演奏家=研究者(文献から紐解いていく作業)

であることは、むしろ自然に感じる。

でもいわゆる現代のピアノ演奏家の人たちには、偏見かもしれないが、「演奏がすべて」という印象はある。

歴史や伝記といった「外側」を重要視し、コンセプトや解釈を構想するというイメージはあまりない。

特に国際コンクールという戦場をわたり歩く若手ピアニストの場合は、音楽性や技術がすべてと感じる。

ブルース・リウがショパンコンクールで演奏した曲は、私の記憶では確かスケルツォを除いては、敢えて円熟期の作品ではなく、若い時代の作品を選択していたと思う。

単に思いつきで自分のキャラクターに合った楽天的でパーリーピーポーショパン像をやったわけではなく、選曲、配列まで周到に研究した上で構築していた。

このインタビューではっきりと「みんな(Les gens)は演奏以外の宿題を忘れてしまう」とすること言い切った。

コンクールを勝ち抜いたのは、他の人がやっていないことを自分はやったからだと自己分析しているのだろうし、実際その通りだろうと思う。

「冗談好きで明るく陽気なショパンの一面」という着眼点は、確かに今まであまり気付かれることなかった「盲点」かもしれない。

でも、いつの世にも新しいことが嫌いで、保守的(conventionelle)なあり方を好む人は多い。

そういう人々を念頭において、

B : みんな作曲家に忠実であるにはどうすればって言うけど、(中略)現在の我々の生活は当時とは激変してしているのです。」(1:48~)

B : 「忠実である(当時のままの正確さ)」って何でしょうね?(2:32~)

B : ショパンでさえ、(おそらく今日の)本の中では、例えば弟子にクレッシェンドしなさいと言った翌週、弟子がまた来てその通りに弾くと「何でそんな風に弾く?そんなことは言ってない!」と言いました。アイディアというのは日々変化するのです。(2:44~)

現代において「当時」を再現することなどそもそも不可能だし、どう弾くかについて作曲家自身も揺らぎ(自由で即興的なアイディア)を持っていた。

そう語るブルース・リウは(バロック時代は演奏者が自分で自由に付けていたと言われているように)自分自身で考えた装飾音でラモーを演奏している。

バロック音楽の、おそらく「当時」持っていた「斬新性」を好む者にとっては、興味深く楽しい。