「貴族趣味」と言われるようになった最初は、中学校の時「短歌クラブ」というのに入った頃だったと思う。
クラブには2種類あって「授業内」のクラブが短歌、「外」の方はブラスバンド部だった。
今と違って当時は子どもの数も多かったから、1学年の人数は数百人はいたはずだ。
でも「短歌クラブ」は人気がなくて、部員は私ともうひとりの男子の合計2名しかいなかった。
そして男子生徒はいつも昼寝をしていて、結局卒業するまでに一首も詠むことはなかった。
なぜ短歌を始めたかというと、小学校の高学年の頃、歴史の本を読んで源実朝(みなもとのさねとも)を知ったからだった。
この悲劇の歌人実朝が当時私の「アイドル」で、彼の和歌に心酔したのがきっかけだったと思う。
鎌倉を訪れ、実朝ゆかりの地を歩くのが楽しみな渋い中学生だった。
実朝の歌の「語感」は独特で、何というか日本語の「音」と「リズム」が脳内で延々リピートされるような妙味がある。
「大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて割けて散るかも」
「時によりすぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」
『金槐和歌集』
短歌クラブの顧問は、歌人歴も長いベテラン国語教師だった。
私の拙い歌を、今でいえば(俳句の)夏井いつき先生のように、ビシバシと添削していった。
そうしてプロフェッショナル的に直された歌のいくつかは地元のコンクールに送り込まれて入賞したこともあったが、生意気な私は「なんか違うなあ」などと思っていた。
そんなある日、私は源実朝の師匠でもあった藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)と同時代の歌人たちに出会った。
『新古今和歌集』を知ったのは、歌詠みによって幸福と不幸が同時にやってきたようなものだ。
「駒とめて袖打ち払うかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」(藤原定家)
あまりにも圧倒的な美意識と技術、そして完成度だったので、私は短歌をつくることがバカバカしくなった。
私は創作を放棄して「新古今」を読みふけり、耽溺するようになった。
でも耽溺していたのは和歌だけではなかった。
時代は「バブル」で、あの頃は一般庶民全体が「貴族」のような生活をしていた。
多くの同級生たち同様、ピアノを習い、書道教室に通い、他にもスイミングを続け、(こっちは続かなかったけれど)バイオリンやバレエなどの教室にも行ったりもした。
母親が疲れてしまい食事の用意ができない時は、近所のぱりっとしたテーブルクロスのフランス料理店で食事をし、長期休暇になると父の地元神戸にあった伝説の「ジャン・ムーラン」に通っていたので、子どものくせにすっかり舌が肥えてしまった。
こうして子ども時代をどっぷり「貴族」のように過ごした私は、やがてバブル崩壊後の苛烈な日本社会に投げ出されることになる。
狂騒の後の長い暗黒時代=氷河期の世界で辛酸をなめることになるとは、微塵も想像していなかった。
そんな人生の中で、実朝や定家の和歌は、私にとっては前世のことのように遠いものになってしまった。
それから長い年月が経って、自分自身もいろいろあったが、今年、NHK の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中で、かつての「アイドル」源実朝にようやく会えた。
中学生の頃イメージしていたとおりの、柿澤隼人さん演じる繊細で感受性豊かな実朝を観て、感慨にふけってしまうのも歳を取ったせいかもしれない。