「代々木」の「木」はモミの木

私は明治神宮が大好きでよく参拝に行く。

相方は仕事で煮詰まったり疲れたりすると「そろそろ明治神宮かな?」と言う。

ところが「いざ参らん」という時になって、何かちょっとしたトラブルが起きることが多い。

天気予報が急に変わって雨が降り出す、とか、玄関先で腹痛になるとかだ。

「今日はちょっと無理じゃない?止めようか?」

と言うと「それは邪気に阻まれているのかもしれないから、(逆に)行こう!」

とはね返されるので、ブツブツ文句を言いながら渋々出かける。

するといつも不思議なことに、参道を進むうちに雨が止む。

体調も急に良くなるのは、木々や草木が発する馥郁たる空気のせいに違いない。

100年前に明治天皇をしのんでこの社と森をつくった人々の偉業に感動する。

 

そう思う頃、毎回目に入ってくるのが明治天皇御製(ぎょせい)だ。

うつせみの代々木の里はしづかにて 都のほかの心地こそすれ

現代語に訳せば「代々木の里は静かだから、都の外にいるような心地がするなあ」という意味になる。

しかし御製(天皇の詠歌)の格調高さ大らかさは現代語の散文にすると見事に欠落してしまう。

「うつせみ」「世」に係る枕詞(まくらことば)「代(々木)」掛詞(かけことば)になっている。

そして「はかないこの世」というニュアンスを持ち、それが「里」の風情に重なってイメージが重層化していく。

「都(首都)」の喧騒を離れて、帝が代々木の静けさに憩いを感じてほっとされているお気持ちが伝わってくる。

「心地こそすれ」は、日本語として現代には消滅してしまった「係結びの法則」だ。

現代語としては「心地がする」としか訳せないが、係結びを奪ってしまうと雰囲気がぶち壊しになる。

 

この御製の案内板のところには「この辺りには昔から樅(モミ)の大木が育っていて、名木『代々木』から地名が生まれたが、戦禍で焼失した」という説明がある。

これを初めて見た時「代々木の木はモミの木だったのか」と知った。

クリスマスツリーとして知られるモミは針葉樹だから、広葉樹が育って広がっている現在の神宮ができる「以前の段階」の樹木だ。

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モミは比較的寿命が短く(100~150年)、繊細で大気汚染にも弱いそうだ。

だから、名木『代々木』は、戦禍で焼失しなかったとしても「枕詞」や「係結び」のように、社会の変化時代の流れに吞み込まれて、現代まで生き残ることはなかったかもしれない。

そんなことを思い巡らせ、参道を進んでいくと拝殿が見える。

雨雲もどこかへ流れていってしまい、空は澄んで輝いている。

参拝が終わるとまた参道を歩いて退去するのだが、その頃には毎回必ず「やっぱり参拝に来てよかった」と思う。

出がけに不思議と起きる小さなトラブルはやっぱり「邪気」による障りに違いない。

夜、締めくくりとしてモミ(サパン)の入浴剤粗塩を入れて沐浴して、一日を終える。