氷河期世代なので若い頃はいろいろ大変なことが多かった。
精神的にも余裕がなくなり視野も行動も狭まることがよくあった。
20代後半の頃やっていた仕事は非正規雇用だったが充実していた。
人は幸福であるほど、実は不幸なのではないかと個人的には思っている。
幸せであればあるほどそれを失った時の損失が大きいからだ。
ペットや家族から無償の愛を受けた人ほど、別れの時は辛い。
逆に家族仲が良くなくてペットもいなければ、喪失の苦しみも軽減される。
そんな人生観を抱くようになったきっかけになったのが、やりがいを感じていた仕事を失った時だった。
解雇されるような落度もなく評価も悪くないと思っていたが、休職者が復帰することになったため契約が終了した。
雇用の調整弁としてシビアに切り捨てられるのが非正規雇用だ。
学校の先輩も同じ職場にいて、女性関係や金銭問題で度々不祥事を起こしていたが、正規雇用の強みで解雇されることはなかった。
喪失感が強かったのは、実は仕事を失ったことよりも職場を失ったことだった。
それくらい職場に愛着と居心地の良さを持っていた。
職場の人達とも身内のように仲良くさせてもらっていた。
若かった私は仕事、人間関係、やりがいも楽しみもすべて職場に一点集中してしまっていた。
だからある日、糧を得る術を失ったことは、同時にメンタル面でもすべてを失ったも同然だった。
その衝撃があまりに多かったので、私は同じ仕事で別の職場を探すのをやめてしまった。
その仕事自体を続けていく意欲がなくなり、二度と振り返ることなく違う世界に入った。
それからの人生では「ひとつの世界に自分のすべてを賭けない」を実践している。
仕事への情熱も「そこそこ」になった。
趣味も仕事と同じくらい「そこそこ」に、片手の指の数ぐらい常時キープしている。
ひとつだけに偏るとのめり込んで自分を見失ったり、バランスを失いやすいと思っている。
だからパワーを少しずつあちこちに分散しておいて、どれかがうまくいかない時は他のことをやる。
心のエネルギーが枯渇するのを防ぐためだ。
全力投球すると燃え尽きる。
「そこそこ」なら、細く長く続けられる。
若い頃の苦い喪失経験から構築した、心の防衛術みたいなものかもしれない。