後鳥羽上皇の財力
以前の記事で後鳥羽上皇が「財テク」の才にも長けていて、それまでバラバラになっていた皇室関係の財産(不動産)を巧みに取りまとめ、手中に収めたことについて触れた。
「リッチマン」であったからこそ、全国の武士の帰属意識がまだ確かではなかった時に、特に西国方面の「武者たち」を自らに引き寄せることができたのだ。
そうして集められたのが、後鳥羽上皇自身が設置した「西面の武士(さいめんのぶし)」という軍隊だ。(承久の乱後に廃止された。)
これは平安時代末期に「院政」を始めた白河法皇が創設し、平家の全盛のはじまりとなった「北面の武士(ほくめんのぶし)」を増強する武装集団だった。
しかしこの軍事力拡大の結末が「承久の乱」だ。
後鳥羽上皇にとってはあっけなく悲惨な事実であったことは、現代人も学校で習って知っている。
本郷和人先生の『承久の乱』は、以前の記事にも書いたが、こんな薄い一冊に知りたいと思うことが理路整然と分かりやすく書いてあるなあと思う。
遊んでばかりいた学生時代の私の疑問「後鳥羽上皇はどうやってリッチになったのか?」についてもちゃんと書いてあった。
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承久の乱の後、後鳥羽上皇の財産はどうなったか?
この疑問についても本郷先生の本がちゃんと教えてくれる。
かつて平家を倒した際には五百カ所もの領地(平家没官領)が、幕府のものとなりました。(中略)承久の乱で幕府が得た後鳥羽系の荘園は実に三千に及びました。平家領の六倍の荘園を手に入れたことで、幕府=北条政権は盤石のものとなったのです。
後鳥羽上皇の資産が「平家一門の六倍」とはすごい。
実は私は高校で日本史を学んでいないからかもしれないが、学生時代はこうした「財産の奪い合い」の捉え方が観念的というか、どこか現実的に感じられなかった。
しかし古今東西の「戦争」というのは「カネの奪い合い」というリアルな目的がほとんどだ。
幕府は平家や後鳥羽上皇との戦いによって得た「財産」を御家人に分け与えることで、確固とした権力を手にした。
上に書いたように後鳥羽上皇の財産は西国中心だったから、承久の乱以降は坂東武者たちは関東地方から西に、こうした荘園に「地頭」として赴任した。
彼らが後の南北朝、室町、戦国時代を生き抜き、明治政権が樹立するまでの長きにわたってこの国をすることになった。
数百年もの「武士の世」が続く勢いを与えてしまったのは、それを一番嫌がっていた後鳥羽上皇だったのかもしれない。
後鳥羽上皇の寵妃が相続した「財産」と悲劇
(ここからは本郷先生の著作から離れる。)
しかし一部には皇室関係者がかろうじて所有しつづけたものや、幕府から「戻された」ものがあった。
前者の中に「七条院領」という荘園がある。
これは、後鳥羽上皇の母親「七条院」(源実朝の御台所の伯母に当たる)が所有していた所領だ。
承久の乱によって後鳥羽上皇(隠岐)、土御門上皇(土佐→阿波)、順徳上皇(佐渡)と親子3人が流刑になるという前代未聞の事態になってしまった。
「七条院」とともに都に残された人々の中に、後鳥羽上皇に最も寵愛されたと言われる妃「修明門院」がいた。
この人は幼い孫たちを引き取って養育していたが、姑から「七条院領」を相続したのだ。
また『鎌倉殿の13人』でシルビア・グラブさんが演じている後鳥羽上皇の乳母、藤原兼子の遺産もこの「七条院領」に加えられた。
したがって、修明門院を始めとして後鳥羽上皇の残された一族は、経済的には問題のない生活をすることができた。
しかし「金さえあれば大丈夫」でもないのが世の常である。
この修明門院に襲い掛かった「悲劇」の話は有名だ。
修明門院が58歳だった頃(1240年)は都の治安が悪化して、強盗だらけだった。
修明門院の住まい四辻殿にもとうとう強盗が押し入った。
そして尼姿の彼女の法衣まで剝ぎ取られてしまったのだ。
経済的には豊かだったわけだから、きっと法衣も高価なものだったのだろう。
(上述の藤原兼子もまた所領が強盗被害に遭っている。)
前年には夫、後鳥羽上皇、この強盗事件の2年後には息子の順徳上皇も崩御してしまう。
しかし修明門院は83歳まで長生きをしている。
源実朝の御台所(坊門信清の娘、西八条禅尼)も京都に戻ってから82歳まで生きたそうだ。
この時代にあって誰よりも長く生きた女性たちの人生はどんなものだったのだろうと思う。
南北朝に至る対立にも「財産争い」
さて、「七条院領」はその後どうなったか?
もっと後になって南北朝時代となるのは誰でも知っているが、その始まりである持明院統(北) VS 大覚寺統(南)の「対立」にもこの「七条院領」が絡んでいる。
両陣営が争った財産のひとつだったのだ。
この争いは結局、訴訟になってとうとう鎌倉幕府に持ち込まれる。
しかし幕府からは「皇室の財産争いなんてそちら(天皇)で処理してくださいよ」と訴訟を「辞退」されてしまう。
やはり「財産」というのはいつも争いの種なのかもしれない。
「歴史」というジャンルでは「財産の奪い合い」というテーマでも研究が可能である点が、スカした(=金の話などしない)「文学」専攻であった私から見ると興味深い。
(ここから再び本郷先生の著作に戻る。)
承久の乱の結末は、皇族だけでなく京都の貴族たちにも決定的な変革をもたらすことになった。
その辺りの事情について、本郷先生は権威が失墜した貴族たちは「サービスを売り出すようになった」と述べている。
天皇、貴族を中心とする世の終わりには、「文学」の世界でも画期的なことが起きた。
「和歌」の世界において初めて、その後のあらゆる日本文化に普及することになる「家元」という仕組みが生み出されたのだ。
(この辺りが修士論文のテーマだった記憶...)
ここにも切実な「金銭事情」が絡んでいることは疑いようがない。
結局「カネ、カネ、カネ」で終わる記事になってしまった。
しかしこれが人の世の常なので、仕方のないことかもしれない。