和泉元彌のハッスル参戦
先日、プロレスラーのアントニオ猪木さんが鬼籍に入られた。
私はプロレス全盛期に子ども時代を過ごしながら、プロレスをほとんど知ることはなかった。
学生時代に衝撃の『キン肉マン』との出会いがあり、以来こっそり『キン肉マン』読んだ。
でも『キン肉マン』はあくまでもプロレスをモチーフにしたマンガで、プロレスそのものではない。
結局プロレスというものがよくわかないまま、また時が過ぎた。
そして2005年。
狂言師の和泉元彌がプロレスに参戦するという奇想天外な事件があった。
世の中の事件というのは、現在進行形の時には騒ぎの渦中にいて気づかないものの、ずっと時間が経って振り返ってみると
「あの騒ぎは何だったんだ?バカバカしい!」と思うことがある。
2000年代の和泉元彌の話題も、そんなひとつかもしれない。
対戦相手に決まったのはプロレスの本場アメリカのWWEの元選手、鈴木健想(KENSO)だった。
和泉は記者会見で、
「狂言の世界で培った『狂言力』を生かし、本場アメリカのエンターテインメントプロレスに挑戦したい」*
と語った。(* は以下Wikipedia の「和泉元彌」からの引用)
この発言にも毀誉褒貶の嵐が巻き起こった。
前回書いたが、世の中には「プロレスってヤラセでしょう?」とけなす人間もいる。
そして当たり前だが、プロレスのことをまるで知らずにそう言うのだ。
そういう「ガチ思考」の人はこの時も、
「和泉元彌が本物のプロレスラーに勝てるわけない!」と思ったに違いない。
そして「勝った」と聞いて、
「ほらね、やっぱりヤラセじゃない!」と言う。
私はこの時はもう子どもではなかったから、テレビで「対戦」を見ることができた。
「リアル」と「フィクション」の境界線
和泉元彌はプロレス参戦宣言で世間を驚かす前から、さまざまな言動から騒動を起こす「トラブルメーカー」だった。
そして2002年有名な「ダブルブッキング事件」が起きた。
当時「時の人」で多忙を極めていたところ、うっかり岐阜と東京での各公演が同日に重なってしまい、距離400㎞を3時間で移動しなければならなくなったという「事件」だった。
マスコミやそれに影響された人々が和泉元彌の「だらしなさ」「傲慢さ」を非難する中、彼はヘリコプターと小型ジェット機を駆使して東京に戻り、夕方からの公演に間に合わせてみせた。
この事件にはマスコミも連日大盛り上がり。
当日のワイドショーはこのトリッキーな「移動」を中継していたと記憶している。
つくづく思うのは、
「20年前の日本は世の中も人の心も本当に平和だったんだな」ということだ。
でも和泉元彌がよく言っていた「エンターテイメント」としては大がかりで贅沢だった。
その後も和泉元彌はいろいろ「やらかし」ては騒がれ続けた。
でもあれ程「マス」に対して古典芸能のエンターテイメント性ととっつきやすさをアピールできた人は他にいないと思う。
そして突然のプロレス参戦。
忘れもしない登場シーンは、あの「ダブルブッキング事件」の壮大なパロディだった。
なかなか姿を見せない元彌に皆ざわつく中、
「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」*
と空中からヘリコプターの爆音とともに登場。
前段からここまでですっかり魅了された。
この「試合」には、それまでどんな映画にも感じたことがない不思議な気持ちになった。
でもその感情をまだ客観的に捉えることはできなかった。
プロレスとは...?
リアルとは...? フィクションとは...?
モヤモヤした疑問が一挙に明らかになったのは、それから何年も経ってからだった。
鬼才アロノフスキーの『レスラー』
古今東西、名作と呼ばれる映画は星の数ほどもある。
時々「現在のベスト5」みたいなのをアップデートしている。
新しい良い映画が次々と出てくるが、どうしても「5」から外したくないのが、2008年のダーレン・アロノフスキー監督、ミッキー・ローク主演の『レスラー』だ。
話は逸れるが、最近コメントのやり取りした2人の方々が、それぞれ自身の記事に「ミッキー・ローク」「ダーレン・アロノフスキー」というワードを挙げていたのでちょっと驚いた。
お2人のテーマに共通点はなく、私は偶然『レスラー』のことを考えていた時だった。
これは一種の「セレンディピティ」という現象で、経験上「吉兆」であることが多い。
それはともかく『レスラー』は、映画レビューサイトでこの映画を評価している人のコメントすべてに感動するくらい好きだ。
「評価しない」というコメントも理解できる。ただそれは、
「(まともな人間のまっとうな生き方から見れば)幸せになるチャンスを無駄にした主人公はクソだ」という苛立ちだと思っている。
私がこの映画に感謝している理由は、プロレスについて知りたいと思っていたこと、そして「なぜ自分はプロレスに惹かれるのか?」という疑問に答えてくれたからだ。
また「和泉元彌」と「プロレス」の親和性についても説得力を示している。
ちなみに日本の伝統的な芸能や文学では、あるモノを別のモノとして見る「見立て」という手法がある。
和泉元彌との対戦が決定してしまって苦悩する鈴木健想は先輩から、
「猪木会長はホウキが相手でも良い試合をするって言ったんだ」**
とアドバイスされたそうだ...
**05年ハッスル和泉元彌との迷勝負 その舞台裏お話しします! | 東スポWEB
さて『レスラー』で一番心揺さぶられたのは、
如才なく生きる術と忍耐力がない人間の、『ひとつのこだわり』に対する偏った情熱
が、
自分の中の「クズ」に共鳴する
という点だった。
「クズ」って言葉は悪いけれど「不器用」「頑な」っていうことだ。
器用な人間でも少しは持っているだろう「クズ」な部分を、拡大鏡で毛穴を5倍にするみたいに過剰に見せつける作品だった。
思えばスキャンダルまみれで、後に能楽協会からの除名も確定した和泉元彌も「折目正しい伝統芸能の継承者のあり様」ではなかった。
何かが過剰で、逸脱していて、でも多くの人から注目される輝きを持っていた。
ミッキー・ロークも同じだ。
イケメンでセクシーともてはやされたハリウッド俳優からボクサーに転身、顔面はボコボコになって繰り返される整形手術。
そして2人に巡ってきたプロレスラーという「役」。
現実(リアル)と虚構(フィクション)の境界線があいまいになっていた。
プロレス自体そうであるように。
その「あいまいな境地に賭ける過剰な情熱」こそが、舞台芸術における、映画における、そして人生における「陶酔の瞬間」かもしれない。
このコンセプトをより濃厚に描いたのがアロノフスキー監督の次作『ブラック・スワン』だと思う。
和泉元彌とミッキー・ロークの「共通点」がプロレスというのも不思議な感じがする。
プロレスと同じようにかつては飛ぶ鳥落とす勢いだった彼らのことを、時々懐かしく思い出す。
今では和泉元彌を話題にする人はほとんどいない。
何だかちょっと『レスラー』の主人公みたいだ。
2日間の「強制休暇」の締めくくりとして熱く語ってしまった3000字...
アントニオ猪木さんに合掌。
追記: 本記事では「プロレスラー」としての猪木氏に言及していますが、政治や思想については一切の主張や批評、含意はありませんのでご了承下さい。