「ファスト映画」判決とブロガーとしての心構え

リアルでもネットでも時々思うのは、社会で生きていく上で重要な法律って結構あるのに、意外とちゃんと知られていないことが多いのかもしれないということだ。

それと、最近の傾向なのかどうかは分からないけれど、せっかちな人?結論を急ぐ人が増えた気がしている。

以上の2つについて、このところ何となく思うところがあった。

先日の「ファスト映画」損害賠償5億円判決は、たまたまこの2つ両方に当てはまる事件だった。

 

最近聞かなくなった「替え歌」

ひとつ目の、重要だけど意外と広く認識されていないかもしれないと思ったのは、著作権の問題だ。

今回の判決を受けた被告人たちは、著作権を侵害する行為だと知っていて「ファスト映画」を公開していたのだろうか?

それが不思議でならないが、もし知らなかったなら悔やんでも悔やみきれないだろう。

でも実際、著作権侵害を「大したことない」と思っている人は多いと思う。

今回は民事訴訟なので損害額の算定もあり、高額賠償の判決となった。

しかし「映画」のように営利が関わらなければ、他人の著作物を勝手に利用しても良いと考えている人は結構いる気がする。

そもそも「著作権」「著作物」とは何なのか、よく分かっていない人も多い気がする。

また「それって著作権侵害だよ」と指摘されるまで、まったく気づかないようなこともある。

例えば、私が子どもの頃はよく「替え歌」が流行っていた。

誰でも何かしらの「替え歌」を知っていたと思う。

だがしかし、「替え歌」は著作権侵害に該当する。

「替え歌」に関する事例には、近年話題になった事件もある。

news.yahoo.co.jp

最近はどの業界もコンプライアンスに敏感だ。

だから最近は「替え歌」というものをほとんど見聞きしなくなった。

それはみんな気づいているかもしれないが、著作権の問題だと気づいていない人もいると思う。

 

自分の身を守るために...

今回のファスト映画のような「要約」は当然違法だし、著作物を許可なく「翻訳」してもいけない。

もう世間は忘れてしまったのかもしれないが、有名な「字幕職人」が逮捕起訴された事件もあった。

他人の著作物の利用で唯一認められているのは「引用」のみで、その場合は出典明記や一切の改変を加えてはならないなど厳しい制限がある。

それでも「コピペ」という便利な機能のせいで、違法行為は後を絶たないのだと思う。

某国でドラえもんなどの人気キャラの「パチモン」が量産されていることを非難する人は多い。

でも(金儲けではなくても)気軽にコピペして著作権侵害をしてしまうのも、そうした「パチモン」と同類の行為だ。

ブロガーやYouTuberになるのはカンタンだが、うっかり違法行為に手を染めてしまう落とし穴もある。

また著作権ではないが、最近は飲食店での写真撮影がトラブルになる話も聞く。

実際にそういう場面(店主からお客さんに苦言)を目撃したこともあるし、SNS への無断掲載を巡って裁判沙汰になるケースも珍しくはないそうだ。

飲食店によっては写真撮影やインターネット上での掲載を快く思わないことあるから、やはり事前に許可を取るほうがよさそうだ。

その辺りの事情に詳しい人は皆、そうすることは「すべて自分の身を自分で守るためという意味」という。

自分のしていることが知らずに権利侵害になっていないか、常に注意を払う必要があるかもしれない。

もし不安があったら法律の専門家に相談するのが安心だと思う。

 

とりあえず「結論(=まとめ)」が知りたい時代?

もうひとつ最近気になっているのは、せっかちな人が増えた感覚があることだ。

最近でもないかもしれないが、いっとき「ニーチェ」の要約本のようなものが流行した。

私はそれを読んでぶっとんだ。

ニーチェ自身が書いた著作と比べてあまりにもかけ離れていたからだ。

善悪の彼岸』『道徳の系譜』『ツァラトゥストラはこう言った』『この人を見よ』

これらの有名な著作を読んだことがある人なら、崖から突き落とされたような落差に愕然としたに違いない。

ニーチェがこのことを知ったらどう思うだろう?

本人が生きていたらこれこそ「民事訴訟」になりそうだと思った。

ニーチェの作品からわずかな一節を引用し、あとは日本語の本の筆者が自分の解釈で言いたいことを語っている...

それでも「ニーチェ」を簡潔に知ることができる本、としてよく売れていたものだ。

こうした安易な「まとめ本」を読んだ時から、ずっとイヤな感覚が続いている。

「ファスト映画」の事件もこれと共通する部分があるのではないかという気がする。

すごく映画が好きな人が、すごく思い入れのある作品の「ファスト映画」を見たらどんな気がするだろう?

それでも「ファスト映画」には、著作権侵害は問題ではあるが「一定の需要がある」などと言う人もいるようだ。

こんなにせっかちに「結論=まとめ」が欲しいというのは、いったい何を生き急いでいるのか、不思議な気持ちにもなる。

「結論=まとめ」だけが重要なのではないことは多い。

数学の証明問題というのは、最後の「答え」だけが問題ではない。

いかに美しくエレガントな証明(途中経過)があるかが重要だと言われる。

それでも現代は「結論=まとめ」だけが重要ということなら、将来はすべてが簡潔に箇条書きになるかもしれない。

すごく味気ない世界になりそうだ。