プレ老後は何歳から?
当ブログのタイトルに「プレ老後ライフ」という言葉を選んだのには理由がある。
「プレ老後ライフ」というワードが、リアルでもインターネット上でもあまり使われていないからだ。
「プレ老後」と検索してみると上位で表示されるのは、
老後の生活における「資金」をどうするか?
といったファイナンス面からのアプローチが多い。
その他、私と同じようにコロナ禍で生活スタイルが「老後みたいだなあ」と感じた人のブログ記事がいくつかある。
FP系の人たちと他のブロガーさんと私の共通認識として、
「プレ老後」=「老後が始まる前」
という定義はあると思う。
でも具体的に、
「プレ老後」はいつ始まるのか?
については相違があるかもしれない。
上述のFPの方々のページの多くは
定年退職する前
あたりを「プレ定年=プレ老後」と想定し、退職後の金銭的な生活設計をどうするかを問題にしているようだ。
だから
60~65歳より少し前が「プレ老後」
というのが一般的な考え方かもしれない。
でも私はまったく違う考え方を持っている。
「プレ老後」は自分の老後を想像し、将来に思いを巡らせた瞬間から始まると思っている。
そしてFPの方々が提案する「老後資金」についての「こうすれば心配ない!」というアプローチについては、
お金の話は「老後」の生活を想定する上で大事なことの「一部」に過ぎない
と考えている。
そして「プレ老後ライフ」をより広い視点で考えていきたいと思っている。
初めて「老後」を想像した時
私が初めて自分の未来、老後について具体的に想像したのは30代の時「乗馬クラブ」でだった。
親戚に馬術選手がいたこともあり、子どもの頃馬に乗ったことはあったが「いつか習いたいな」と思いながら、ずっと先送りしていた。
氷河期に社会に出てそれどころではなかったからだ。
たまたま当時仕事の関係で住んでいた近くに乗馬クラブがあったので、何度か行って乗馬のレッスンを眺めていた。
もうかなり前の話だが、乗馬を習っている人の年齢層は圧倒的に中高年が多く、それは今も変わっていないと思う。
「老後の楽しみ」の人も多かった。
しかし観察しているとやはり習得がたいへんそうで、落馬事故や怪我をする人もいた。
私はさほど運動神経がよい方ではないし、少しでも若い方が習得が早いのは見ていて分かった。
それにもし、と考えた。
もし「老後」が来なくて死んじゃったら...?
そこで「今でしょ」と思い、すぐにレッスンを始めた。
老後の楽しみを「前借り」
正直、氷河期世代でいろいろ苦労し、その頃も仕事や勉強でてんてこまいではあった。
安定した企業の社員として既得権を行使して楽している人とは違って常にスキルアップ、価値向上に追われていた。
だから当時面倒くさい趣味を始めたのは大変ではあった。
でも結果として良かったと思っている。
リアルの世界では他人が「価値がある」と決めたことに少なからず影響されて生きている。
でも自分で優先順位を決めると、自分で物事の「価値」も付けられるようになる。
趣味を楽しもうと思うと仕事の張り合いにもなるし、時間とコストの配分も自律的になっていった。
それにリタイアしてから始めるより長い年数楽しめるのは、コストパフォーマンス的にも良い。
そういう意味では「老後ライフの前借り」でもあった。
この考え方を他の物事にも当てはめるようになった。
当時から昭和的な仕事観を拒絶していた私は「早く生まれ過ぎたZ世代」を自称している。
「乗馬」という趣味を手がかりとして30代から「プレ老後ライフ」が始まった気もしている。
「老後」のない人たち
私の周囲には70代後半で「現役」で仕事をしている人がわりといる。
趣味の乗馬関係では特に多い。
クラブを経営していたり、指導していたり、厩務の仕事をしていたりといろいろだ。
働き方はさまざまだが、ある日をもって「定年」ですね、はいさようなら、と言って辞める人は少ない。
だから彼らには「老後ライフ」という考えはなく、できるところまで、それまでと同じ生活を続けるようだ。
今までやってきたことをずっと続けるという意味では、仕事でなくても、趣味でも他のことでもいいと思う。
自分は将来どうするかまだ分からないが、コロナ禍を機に働き方を変えた。
ガツガツ働くのをやめて、細ーくすることにした。
これも生涯現役を目指して長く続けるためだ(と言い訳もできる)。
「もう辛くて無理」と思うところまでやると「生涯」続けるのは無理だ。
これにはもう一つ理由があって、相方の仕事が数年来急激に忙しくなったこともある。
2人とも限界まで働いていたら「共倒れ」のリスクは高まるから「ライフワークバランス」は2人分トータルで調整することになった。
(コロナ禍で外部サービスが使えなくなり相方の「専属マッサージ師」にならざるを得なくなったのもある...)
「老後」をリアルに想像すること
17世紀フランスのモラリスト文学者ラ・ロシュフコーの有名な箴言がある。
Le soleil ni la mort ne se peuvent regarder fixement.
太陽も死もじっと見つめることはできない。
フランス語らしい「再帰構文」であることはパスして、中身を考えてみる。
当時の人は今のように長生きではないし、病気で亡くなる率も高かった。
コロナ禍になって、我々現代人もちょっと「死」が現実的になった部分はある。
またもし我が国も戦禍に見舞われるようなことになれば「死」は近くなるかもしれない。
でも、単に目を背けているだけかもしれないが17世紀の人々ほどはリアルに「死」を恐れていない気がする。
逆に「老後を不安に思う気持ち」は、現代人の方が強くなっているのではないか?
昔の人は「老後」についてどう考えていたのだろう?
そもそも、そんなものは存在しなかったのかもしれない。
寿命が延びたことによって我々は「老後」という追加期間にどうにか対処しなければならなくなった。
結局、自分がいつまで生きるのかは、誰も分からない。
ロシュフコーの箴言と同様、「老後」もまた「じっと見つめる」のは難易度が高い。
でも先を見据えて今を「長いプレ老後」と位置付けて生きることによって、「遮光板(しゃこうばん)」を使って太陽を見るくらいには「老後」を考えられるような気がする。
これが「プレ老後ライフ」を模索する自分の基本的な「老後観」だ。
「老後」という人生の終焉期を「現在」から切り離して「遠い先のこと」として据え置くのではなく、一続きのものとして捉えてゆきたいと思っている。