芸術家とプロパガンダ

ふだんの社会生活においては意識的、いや無意識でも避けている類の事柄がある。少なくとも日本においては。

それは政治、宗教、信条といった関係の話題だ。

外国のことは良く知っているわけではないが、イギリス人の友人は余程に必要性と文脈の中でしか政治を話題にしない。

フランス人は逆で、初対面でも臆面もなくこうした話題を持ち出すが、議論好きがお約束みたいな国民性なのか、ディープな話題にも平然としていられる神経を持っていると感じる。

個人的に親しかったわけではないが、仕事で関わりのあったロシア人と中国人は絶対に政治の話は出さなかった。
興味がないのではなく、「固く口を閉ざしている」という印象だった。
その理由は言うまでもない。

事情はさまざまだが、大抵は「相手の領域」に足を踏み入れないように配慮しながら他者と共存している。

それぞれが心のうちに「大切にしているもの」を傷つけないようにするのは大切なことだと思う。

けれども、そんな風に気遣いながら生きているにもかかわらず、避けたり見ないようにしている類のことがある時否応なしに目の前に突き付けられることがある。

最近のニュースで何とも言えず心がザワザワしたのは「芸術家と政治」にまつわる次の事件だった。

 

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まず最初に感じたのは、言葉にならないモヤモヤした感情。

ゲルギエフ氏が以前からプーチン大統領と親しい関係にあることは、格別同氏のファンでもない私でも知っていた。

マリインスキー劇場プーチン大統領ゲルギエフ氏。
国威発揚プロパガンダ)のひとつの完成形。

けれどもその「恐ろしさ」を感じている人は多くないと思っていた。

「芸術家とプロパガンダ」について興味のある人はあまり多くないのかもしれない。

そして、そもそも日本ではプーチン大統領すなわちロシアについてそれほど関心が持たれていなかっただろうし、更にこの異国の権力者を一種の「キャラ」「ネタ」のようにコミカルな存在として扱う人々もいた。

一般的なレベルでそんな状態だから、西欧に音楽留学している親戚の学生などは「ロシア」「中国」「帝国主義」などと聞いても、宇宙が舞台の SF 映画の話でも耳にしたような顔をするほどに政治音痴だ。

けれども、クラシック音楽を聴く人が演奏家のバックグラウンドや政治的事情を鑑みて「だからこの指揮者の演奏を聴くのはやめよう」などと判断することはないだろう。
「政治と芸術は別次元」と普通は考えるだろうし、それは別に非常識でもない。

けれども、同時に「政治と芸術は別次元」という私たちが意識/無意識に抱いてしまう感覚にこそ、政治権力が芸術を利用する上での「罠」があると思う。

私がこの考えを持つようになったのは、ナチス・ドイツにおいてプロパガンダ映画を制作した映画監督レニ・リーフェンシュタールについての著作を読んだ影響だ。

リーフェンシュタールの作品は美しい。
ナチスのお抱え芸術家だという知識があろうとなかろうと、思わず心を奪われてしまう美しさがある。

有名なベルリンオリンピックを描いた『オリンピア』(『民族の祭典』)には数々の日本人陸上選手や米国の黒人選手ジェシー・オーエンスの活躍も見事に描写されているし、有色人種への偏見も見当たらない。

純粋に「美」にフォーカスした作品。
それは映画女優、監督としてのキャリアの初めの頃の山岳映画にも見出すものだし、戦後スーダンのヌバ族の人々を撮った写真集にもあふれ出す美だ。

さらにレニ・リーフェンシュタールの自伝(『回想』)を読むと、我々はますますこの「美に憑りつかれた芸術家」に共感し、特異な時代に生まれた不運に同情するようになる。
「決してナチスの犯罪的行為に与したのではなかったのだ、ただ権力者に利用されたに過ぎなかったのだ」と考えるようになる。

しかし読者が「リーフェンシュタールは加害者の側ではなかったのだ」と自分を納得させ、良心を揺るがせずにはいられないこのプロセスを嘲笑うかのように新たな事実が付きつけられる。

それが『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(スティーヴン・バック著)という渾身のノンフィクション作品だ。

ここではリーフェンシュタールが「都合よく」記憶から削除したナチスとの親しい関係や「勝訴しかしなかった」と豪語しながら実は負けた裁判の記録等が容赦なく暴露されている。

1995年のドイツのドキュメンタリー映画『レニ』には「美に憑りつかれた芸術家」としてのリーフェンシュタールの持つ「ナチスに加担した芸術家」という二面性が描かれており、この傑出した芸術家をどのように評価するかは受け手の側に委ねられている。

ところでしばしば指摘されることだが「政治と芸術は別次元」という考え方にはひとつ欠けている視点がある。

それは「倫理観」だ。平たく言えば「モラル」ということだが、そのあり方は社会(国、文化)等によりかなり異なると思う。

上述のレニ・リーフェンシュタールの写真集『ヌバ』について、ユダヤ系の米国人スーザン・ソンタグは『魅惑的なファシズム』(1974)の中で「ファシズム的美学」だとして批判をしている。

ナチスの「被害者」としての視点かもしれないが、そこで貫かれている徹底的な「倫理観」には見事な論法とともに完膚なきまで圧倒される。

一方で日本(人)はと言えば、「倫理観」「モラル」においては良く言えば「寛容」、悪く言えば「鈍感」な方ではないかと思っている。

徹底的な「ゲルギエフ追放」というニュースについても、「非はあるかもしれないが、ここまでの処遇は気の毒」という良く言えば「懐の大きさ」、悪く言えば「生ぬるさ」を持つのがごく一般的な日本人の感覚ではないかと思っている。

レニ・リーフェンシュタールの生涯が毀誉褒貶の連続であり、結局その死後も芸術の「受け手」としての我々に釈然としないモヤモヤを与え続けているように、ゲルギエフ氏も同じように「プロパガンダ芸術家」として記憶されることになるのかもしれない。

フルトヴェングラーカラヤンといったセピア色の指揮者たちがそうだったように。
バイロイト音楽祭がそうであったように。

「ただ純粋に音楽活動に邁進していただけだ」

皆たいてい同じことを言う。
それをどのように受け止めるか、繰り返しになるが我々ひとりひとりに委ねられている。

「倫理観」「モラル」というのは、政治、宗教、信条に属するものだ。
冒頭に書いたように、それらは軽々しく他者と議論したり分かち合うものでもないと思う。

世俗的な「モラル」と言えば、例えば「不倫」だってそれだが、その受け止め方も人によって異なるだろうし、価値観の違いというのはいつだって存在する。

ゲルギエフ氏のニュースはしかし、今後のぞっとする世界を想像させる。

「ロシア」「中国」「帝国主義」というワードにきょとんとしていた親戚の音大生でさえ、それがどこかの惑星か宇宙空間の話ではないのだと分かっただろう。

世界中の芸術家たちも早晩「こっちの陣営」か「あっちの陣営」のどちらかに振り分けられることを余儀なくされるであろう将来。

普段の生活の中で大切に心に仕舞っている政治、宗教、信条といった事柄が容赦なくあぶり出される将来。

そんな将来を、ただ「恐ろしい」と感じざるを得ない。

*この記事は以前 note にて公開していたものです。