自分より一まわり以上年上の(現在だと)60代の人たちを観察することが多い。
20代ごろから、上の世代の人たちを眺めながら、自分の生き方を模索してきた。
「10年後自分はどう生きていたいか?」を設定する上で参考になる存在だからだ。
そろそろ「老後ライフ」に入りつつある年配の人たちは、さまざまだ。
仕事を続けている人。
趣味に没頭している人。
楽しそうな人。
つまらなそうな人。
満足して生きている人。
不満を抱えて生きている人。
うっすら感じていることがある。
それは、老後ライフにおいて、お金さえあれば幸せに生きられるわけではないことだ。
「老後ライフ」というワードを検索するとほぼ「老後の資金繰り云々」といったサイトしか見当たらない。
でも老後ライフにとって重要なファクターがお金だけであるはずがないと思う。
お金では買えないものはいろいろある。
健康、人間関係、スキル、センス etc.
資産家で、早くから「プレ老後ライフ」を始めた人を知っている。
でも堅実に教師をしていた頃と変わって、美食が過ぎて肥満し、顔色は悪く常に体調が悪い。
巨富によって得られるモノをことごとく手に入れ、誰もがうらやみそうな生活だった。
それなのにいつもちょっとびっくりするほど陰気な表情をしていた。
その人の両親も同じく大地主だが、彼らは昔と変わらず農業を続けて地味な暮らしを続けており、結果、健康で若々しい。
ところで、東京という街に暮らしていると「楽しいこと」がいっぱいある。
古典芸能でも現代アートでも、お金を払うだけで「世界最高峰」とか言われるモノやパフォーマンスを目の前で見ることができる。
よりどりみどり何でもあって「ない」ジャンルを探す方が難しいと思う。
でも、こういう楽しみには美食と同じような「中毒性」と「副作用」が伴うと感じる。
畢竟、お金を払って得る楽しみは「感覚に刺激を受けることによる娯楽」に過ぎない。
そして刺激を受けて脳内物質に酔いしれる楽しみには、中毒性がある。
「ああ楽しかった。また刺激を受けたい...」
こうして課金していくのは、スマホのゲームに似ている。
刺激が得られないと「渇望感」に苛まれ始めるのだ。
また、お金を払って「一流」を求めて続けるうちに、次第に自分自身も「一流で高尚になった」と錯覚してしまう怖さもある。
私は「怖さ」と書いたが、それをまったく恐れない人もいる。
それは、美食に溺れても健康や容姿を損ねない、幸運な人に似ていると思う。
自分の場合は、美食を続けたら遅かれ早かれ確実に結果が伴う。
それが怖いから、なるべく「節制」を基本にしている。
私はキリスト教(オーソドックス)の影響下で育った。
大学生くらいの頃、フリードリヒ・ニーチェの著作に出会ったことで意識は大きく変わった。
それでも若い頃、いろいろ事情があってしばらくキリスト教の修道院で生活をしていたことがある。
その時の思い出というか経験は、不思議なほど自分の意識に根付くことになった。
特に、正午と就寝前に唱える祈りの文句が印象深く心に刻まれた。
修道院というのは(日本における仏教と同じく)昔から社会の支配階級(王侯貴族)とも結びつきが深い。
もちろん歴史的に見て、オーソドックスな宗教において、日本も西洋も同じように堕落し腐敗していた部分もある。
でも意外と真面目に「俗世を離れた暮らし」を実践していた人々も多いと思う。
たぶん、栄華を享受していながらそうした「富によって得られる刺激による楽しみ」に飽きたり、空しくなった人も多かったのじゃないかと思う。
だから敢えて巨富を手放して、身一つで修道生活に入る人もけっこういたのだ。
一日の中で幾度も決まった時間に「お祈り」があり、自分の身や空間を清潔にしたり、瞑想に重きを置く。
キリスト教でも仏教でも、神道ですら似通った部分は多くあると思う。
先進国の現代人の暮らしと意識は、多くの場合、昔だったら「特権階級」しか得られないようなものだろう。
「お金ですべてが賄える」と思う生活。
でもそれが息苦しくなったり、不安になることも多い。
修道士や僧侶のように俗世を離れずとも、やはり生きていく上での拠り所は何かしら「精神的」であることを指針にしたいと思っている。
そうでないと、ふと気づけば「金がすべて」思考に絡めとられやすく、何か大切なものを見失いやすい気がする。