昔、仕事で関わりがあった欧州のラグジュアリーブランドには今も興味がある。
ある時、知人がとあるブランドの販売員が品物のことを「〇〇」と呼ぶのが、不思議というか妙に芝居がかっている、と言い出した。
思わずニヤッとしてしまったのだが、それは接客マニュアルにお客様の前では「〇〇」と呼べと指示しているせいだ。
決してセールススタッフが気取ってもったいぶっているわけではない。
正確に言えば「〇〇(英語/フランス語)」と記された本部の指令を日本語に「翻訳」した時の訳語が、日本人が聞くとちょっと浮いた表現なのだ。
ヨーロッパ語と日本語の本質的な差異から生じる違和感だが、言語学的な問題が解決されていないまま、現場で「〇〇?」と戸惑いながら使用されていることはよくある。
それはともかく、以前は職業上の関心の対象であったブランドウォッチングは、私にとって現在では2つの意味がある。
ひとつめは業界の勢力図ウォッチング。
ベルナール・アルノー率いるLVMH 帝国にリシュモン、ケリングが続くという構図。
それには与さない独立系の中で「最高峰」のエルメス、そしてブランド価値の向上において昨今目を見張るのがシャネル。
ブランドの勢力図を歴史と比較してみると、各々「宗教」に近いものだと感じる。
莫大な資産と権威を有する宗教勢力。
かつて栄華を誇ったキリスト教はヨーロッパではすっかり衰退したが、ブランドという「新宗教」は今も世界中での布教活動に成功している。
歴史を勉強するのと同様に、現在進行形での覇権争いはおもしろい。
さて肝心の2つめのブランドウォッチングの目的は、何ということはない。
自分が「これぞ」と思うバッグを見つけ、買いたいと思っているだけだ。
私は当ブログと同様、バッグも「ユニセックス」を追求したいと思っている。
馬好きとしては馬具メーカーだったエルメスがある。
でも突き抜けた価格とは別に、エルメスはしっくりこない点がある。
すべての佇まいがフェミニンなのだ。
ざっくばらんな服装のジェーン・バーキンが雑にカッコよく使いまわしたという伝説のような使い方をしている人を見たことがない。
以前の記事でヴァンクリーフ&アーペルのアルハンブラの悪口を書いたことがある。
「フェミニンな恰好でアルハンブラをつけた女性が持っているバッグがエルメス」というのが自分の中のステレオタイプだ。
そういうのが「古臭い」と思う自分は、近年ミキモトがパールネックレスの広告に男性を起用したのがすごいと思った。
街中にも「パール男子」をよく見かけるようになった。
結局、今まで生きてきて、本当の意味で気に入ったバッグには出会っていない。
30代頃からずっと「暫定的」にゴヤールのトートバッグを使いまわしている。
現在ではますます価格が上昇し、購入時の価格より中古で出回っている価格の方が高いかもしれない。
日本は職業上の身分差別が強く、フリーランスで働いていた頃は仕事の場でも「足元を見られる」ことが多い。
だからブランド品が「威光」を発揮することが多かった。
現在は違うかもしれないが、一昔前の日本でブランドがもてはやされたのは水戸黄門の「ご印籠」のような意味があったのかもしれない。
ゴヤールはすごく気に入っているわけではないが、汎用性という意味でも軽く、雨にも強く使いやすさという点で優秀なバッグなのかもしれない。
つきぬけた価格のエルメスとシャネルの「一部のバッグ」を除くと、ブランドバッグは「流行」に左右されるプロダクトだ。
「旬」を過ぎるとどことなく古臭さが漂いはじめ、次第に使われなくなる。
そうするとまた次のバッグが欲しくなる構図だ。
コンサートをはじめ、お金を払って得られる「芸術」に陶酔するのにも似ている。
それは「尽きることのない刺激への渇望」だ。
中高年の中には「バッグは重いのはもう無理、放出!ブランドじゃなくナイロン!」という人が多い。
しか、それはそれで筋力と体力の衰えが心配になってしまう。
そういう人は住居も「平屋がいい」というが、重いモノを持つことと階段昇降はすごくいいトレーニングになると思うのだが。
そんなことを思いつつ、相変わらずバッグジプシーをしている。
先日、誕生日だったのでエルメスではない馬具モチーフのブランドのショルダーバッグを購入した。
ブランドのロゴではなく、ホースビットがあしらわれたやつだ。
デザインも形もベーシックだ。
でもこれだと、結局サブバッグが必要なんだよね。
こうして「理想のバッグ」への終わりのない旅路は続く。