息苦しい日本の中年の私

10年くらい前、基本的に日本で暮らしながらも、そうではない感覚を持つようなった。

仕事が主にインターネットというか、クラウドというか、そういう場所で働くようになってからだった。

多言語使用の環境で、不規則な対応を強いられる仕事だった。

そのせいで、日常生活の中で相方以外の日本人とコミュニケーションを取る機会が激減した。

その代わり、PCさえあればどこでも仕事ができたので、コロナ禍で注目されるようになったワーケーションのようなことも存分に楽しめた。

各地で温泉に入ったり、乗馬をしながら仕事したりもした。

車中心の生活だったこともあり、大勢の他者との接触はますます遠くなった。

ある日、久しぶりに電車に乗ってみて驚愕した。

うまく言葉にできないが、自分の知っている以前の日本の感じではなかった。

大ざっぱに言えば「息苦しい」。

今から数年前のことである。

 

電車に乗ったのをきっかけに、もう少し人と出会ったり関わったりしようと思った。

「でも、いい大人になってから新しく人と仲良くなるのは難しいものかもしれない」

とも感じた。

それでもいろいろ趣味をやっていると人との出会いもあり、程よい距離感で付き合うこともできる。

ある日、知人がこう言った。

「最近、思うんだけど、この歳になって新しく人と知り合おうとすると、ほぼ宗教かマルチなんだよね」

それを聞いて笑ってしまった。

確かに知人のいうことは正しい。

電車の中で「自分の知っている日本じゃない」感じがして以降、新たに出会った人たちを思い浮かべてみた。

すると、見事に「マルチ」か「宗教」の人だったのだ!

しかし私の場合、そういう「勧誘っ気」に満ち満ちた人たちとわりと普通に付き合い、さほど困ったことじゃなかった。

少なくとも「新たな出会い」が「実は勧誘」だったことでさほど落胆することはなかった。

自分と知人の「違い」は何かと考えてみた。

それはすぐに分かる気がする。

私ははっきりと「No(お断り)」をいうからだ。

思い出してみると、上記の人々からもマルチの場合はサプリメントや健康器具、そして宗教の人からは集会やコンサートみたいなのに誘われた。

だが、断った。

それも「No」だけではなく「because」まで付けて。

一度断った後、しばらくしてまた誘われたことはあった気がする。

でもやっぱり「No」と言って、平然と付き合っていた。

そうした関係も、コロナ禍の3年間ですっかり疎遠になってしまった。

 

知人のいうことはもっともだ。

昔だったら、人と出会ってこんなに何かに「勧誘」されることはなかった。

多分、勧誘されてイヤな思いをする人は、心優しく「No」が言いづらい人だと思う。

そしてそれは日本人の大多数であり、美徳だ。

私みたいなのは日本人の暗黙のルールから逸脱しているのだ。

そして何にせよ「強引な勧誘」というのは、日本人の伝統的な価値観、美意識に反する蛮行に近いかもしれない。

私の場合は、子供時代の環境と大人になってからの仕事の影響で、どこかしら日本人としてはかなり浮いた「気性」を持っているようだ。

そのせいで「同調圧力」の強い日本人社会ではかなり難しさを感じてきた。

 

社会全体にありとあらゆる「勧誘」が跋扈する現代の日本。

「相手を困らせない配慮」など意にも介さないような「厚かましさ」を持った人がのし上がる。

階層社会だった頃のように、すでに自分が属する(信頼できる)コミュニティの人間関係に完結するなら、こうした問題は発生しないと思う。

でも安全圏内に留まっているだけでは、何事につけ現状維持に甘んじたり、停滞することも多い。

にも関わらず、「(新たな)人との関係を持ちたがらない」人は最近とみに増えている気がする。

「外に出れば(人と関われば)危険ばかり」という全体的な意識は、引きこもりをしている人だけが感じているものではないのかもしれない。

中年になってからも「勧誘」じゃない出会いや人との交流を望む人は多いはずなのに、息苦しい日本。

 

最近は円安基調もあり、海外に移住する若い人が増えているようだ。

この国のほぼすべてが既得権でがんじがらめになっているのが元凶だと、氷河期世代の自分は思う。

その既得権を、伝統的な価値観や言語を含む文化が支えている構図。

私はもはや中年になってしまったので、この先はおそらく日本で暮らし続けるだろう。

でもこの国の「奥ゆかしく繊細」な側にも、「空気を読まず厚顔」な側のどちらにも属せないし、属したくない気がする。

唯一の望みは「中年の貫禄」を身に付け、この両者と絶妙な距離感を取り続けることしかないのかもしれないと思っている。