今春から出入りすることになる職場(大学)のマスク着用のポリシーがまだ確定しない。
自分は花粉のアレルギーがあるから、まだしばらくは外さない予定ではある。
コロナ禍以前から春先はいつもそうしている。
でも、世間は「マスクをどうするか?」の判断に苦慮しているようだ。
そして大方の人々の意見は「つけるのかつけないのか、はっきり決めてほしい」ではないかと思う。
3年に及ぶ「マスク着用が必須」状態が続き、今もなおまだ新型コロナの感染者がいなくなったわけではない。
だから、まだ何となくマスクを取りたくないという人は多い気がする。
また特に、若い人にはマスクを着けている方が普通な「成長期」を過ごしてきた。
今になって急にマスクを外して顔をさらすことに抵抗を覚える人も少なくない。
それに元来コロナに関わらず、日本人はマスク着用を好む人が多い。
その感覚は、やっぱり「他者との間の鎧」の意味だと思う。
先日、10人ほどの人と集まる席があった。
途中、休憩時間に軽食を取ったが、既知同士の2人以外は飲食中はほぼ無言だった。
おしゃべりする2人はおそらく日頃から「マスク会食」ではない関係性のようだった。
そんな時、場には微妙な空気が流れる。
(おしゃべりしながら飲食するなんて...)
という目には見えない「抗議」の空気が醸し出される。
コロナ禍3年の「重み」を感じる。
現在では同居家族以外の人とも「濃厚接触」に該当する感じで、飲食を共にする人も増えてきた。
2021年の夏頃、誰でも知っているブランドの運営企業の人たちと一緒のことがあった。
彼らはまったく意に介せず同僚たちと飛沫防止用のアクリル板を設置していない店でおしゃべりをしながらランチを取っていた。
良し悪しは別として、私はとにかくたいへん驚いた。
一方で、うちの相方は仕事のプロジェクトの編成で、多数の他組織の人たちと日々接触する状況だった。
コロナ対策は非常に厳しく、同居の私も日々緊張を強いられていた。
医療関係者と同じくらいの意識だったと思う。
そうした「意識の差」はずいぶん薄まったが、最終的に現在の「マスクをどうするか?」問題に流れ着いた。
思えばもっと以前から「日本」には目には見えないさまざまな意識の分断があった。
政治や宗教などでなくても、もっと身近な「人との距離感」「人間関係」をめぐる意識の差だ。
中高年層と若年層とのさまざまな事象対する意識の違いも顕著だ。
でもいろいろな人の話を聞いていて思うのは、「他人との関わり方」において徹底的な「分断」を生んだのがコロナ禍だ。
「感染することを恐れている人 VS 感染を心配しない人」
感染対策を巡る見解の相違によって、友達がいなくなったという人もいる。
または相手の人間性の本質を見てしまったと感じる人も多い。
端的に言えば、そうした分断は
「繊細さん」VS「鈍感さん」
の二極化ではないかと思う。
普通に考えれば、本来人間は「繊細な部分」と「鈍感な部分」を両方持っているはずだ。
でも現在の世の中は、極端にどっちかに振れ過ぎた言動によって問題が発生することが多いと感じる。
「極端」というのは注目すべきキーワードという気もする。
SNS をはじめ、「極端」な事象が注目され、もてはやされる時代だ。
極端に持ちモノを減らしたミニマリスト
極端に唐辛子料理ばかり食べる人
極端にコレクションを所有している人
極端に大金を使う人
極端な節約技を繰り広げる人
知人のフランス人は「日本人って極端だと思うことが多い」と言う。
多くの人が忍耐強く、周りに気を遣って生きているけど、ふとした時に「極端」な言動に出ると感じるらしい。
私は「極端」ではなく何事も「中庸」でバランスが良い方がよい。
「極端」な主張をする人も苦手だ。
でも、そういうのは「あまり価値がない」とされるのが、現在の社会の空気だ。
マスク問題がいったいどうなるのかわからないが、「繊細な人」VS「鈍感な人」の脳内における抗争はまだまだ続きそうだと思う。