朝日カルチャーセンター講座「ブルース・リウ流 音楽のつくり方」配信視聴
「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」
このストラヴィンスキーの言葉は、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を想起させる。
「音楽は世界に存在するイデアの模写ではない」
ゆえに世界に存在するイデアの「模写」である絵画や文学よりも、音楽は次元が上で「哲学」と同じ地位にあるものだとしている。
音楽という芸術を絵画や文学などの芸術形式と比較するのは、伝統的な哲学(美学)の考え方だが、最近これに関しておもしろい発言を聞いた。
2月に来日ツアーのあったブルース・リウの発言だ。
2月23日(祝)に開催された朝日カルチャーセンター新宿教室の講座「ブルース・リウ流 音楽のつくり方」というイベントの録画を観た。
そもそもこのイベントがあった週は1日おきにリサイタルがあり、こちらは公演を聴くだけだったのにも関わらず、多忙な一週間になった。
そのせいでこの講座の期間限定録画を、配信終了ギリギリで何とか見ることができた。
通訳者のせいにされる微妙な表現
外国語を話す人がいて、逐次通訳がつくというスタイルには、クラシック音楽だけではなく非常に興味がある。
私にとって「通訳」という仕事は「なんちゃって」の域では関わったものの、それ以上になることもなく、逆にある種の畏怖を抱いているのには理由がある。
昔子供だった頃、北野武監督がヴェネツィアの映画祭での記者会見で「また日本とイタリアで組んでアメリカと戦おう!」みたいな発言をしたのを、通訳が「まんま」訳したことによって物議を巻き起こしたことがあった。
北野氏は「映画というジャンルにおいてかつて日本とイタリアはレベルの高い作品を作っていたのに現在ではハリウッドに負けているから、もっと映画作り頑張ろうぜ!」をいう部分を端折って、お笑い芸人のネタっぽく「わざと」第二次世界大戦を想起させるような物言いをしたのだ。
日本人同士のやり取りなら「察して」済むかもしれないが、ヨーロッパ、しかもイタリア語となるとそうはいかない。
コンテクストに依存しない言語においては、「推して知るべし」は命取りだ。
この場合、通訳は端折られた部分をきちんと「補って」通訳すべきかどうかという問題になって、この時も「通訳の質が...」などと責める人がいた。
この事件を見聞きした私は、「北野氏の言葉をそのまま通訳した」以上の責任を負わされるなんて、つくづく「通訳って怖い仕事だな」と感じたのだった。
フランス語話者の英語
それはさておき、ブルース・リウ氏の公開講座だが、私はピアノの演奏と同等かそれ以上にこの人の話す言語に興味がある。
(日本語を除いては)自分と同じ言葉を話すというのもあるが、もっとニッチな楽しみがあって、それは「第一言語が英語ではない人の話す英語」つまり「母語の干渉」が観察できるという意味だ。
ブルース・リウ氏の場合、母語はフランス語だがかなり流暢に英語を話す。
でも時折おかしな言い方をしたり、単純に単語が出てこなかったりする。
この講座でも「照明を落とす」と言う時「turn off, turn down」といった英語らしい句動詞がとっさに出ず「close the light」と言っていた。
英語を「話す」ことについて、こうした間違いを恐れずどんどん話すのは、社交的で外交的な人に当てはまる傾向だ。
慎重に語句を選びながら話すやり方と真逆だが、どちらがいいとも言えないと思う。
大事なのは「自分のスタイルで話す」ことだと思うからだ。
発言が長い人の逐次通訳
この講座では、始まってしばらくは一度に話す分量が適度だったので、通訳も丁寧に日本語に訳していた。
しかし途中からひとつの質問への答えが非常に長くなってきて、結果として日本語訳も「要約」せざるを得なくなってしまった。
「要約」が役に立たないわけではないが、人の話というのは(要約の際に脱落する)言葉の端々に「その人らしさ」が表れることが多いのは事実だ。
こういう「通訳泣かせ」はよくある事だろうが、前述の「言葉足らずな」北野監督とは逆なパターンだ。
「多くを語らない日本語話者 VS 言葉を尽くす欧米語話者」はどっちが最強横綱とも言えない程の(逐次)通訳泣かせだと思う。
しかし逐次通訳が追い付かなくなった原因は、他にもあると思う。
配信動画を見始めてすぐ感じたことがある。
この講座は何かのテーマに沿って質疑応答が構成されているのではなく、来日公演に合わせて急遽組まれた「臨時イベント」のようだった。
そのせいか、直前に講座の受講者から集めた「バラバラな」質問を、千本ノックみたいに制限時間までひたすら「消化」するといった様相だ。
過去にどこかで見かけたような表層的な内容をなぞっているだけの質問も多かった。
その結果として、質疑応答の中には「もっとこの点を深めて質問したら面白かっただろうに」と思わざるを得ない勿体ない部分があった。
公開インタビューとしても「量より質」が大事なのではないかというのが率直な感想だ。
クラシックの演奏が似てしまう理由と「二次創造物」
そんな「勿体ない」と思った発言、しかも長すぎて逐次通訳が端折らなければならなかった部分で、ブルース・リウ氏はおもしろいことを言っていた。
作品演奏において「自分らしさ」をどうやって見つけるか?という質問に対してである。
「(音楽においては、個々の演奏は)どことなく似通ったものになりやすい。( somehow it sounds similar)」
「その理由はわからないけれども多分...(I don't know why...but maybe)」として「他者が創造したものを演奏するという意味(because we are playing something written by someone else...)で『二次創造物(second creature)』だからです。」
「例えば、10人にリンゴの絵を描かせたら、10個のリンゴの絵はそれぞれ全然違うものになるでしょう(If you ask ten people to draw an apple, all the ten apples will look very different...)でも、音楽(作品の演奏)はとても簡単に他のひとのモノを模倣できるのです。(but music is very easy of copying...)」
「(音楽においては模倣になりやすい状況の中で)自分らしさを見つけるというプロセスを踏むことになります。(this process of finding your own personality)」
この文脈では(上述のショーペンハウアーや、元々のプラトン、アリストテレスなどのギリシア哲学での話とは違って)「絵画」を「一次創造物」と前提している。(プラトン以降では絵画はイデアを模写したものと位置付けるが、ややこしいので割愛)
クラシック音楽の演奏よりも絵を描く方が「自分らしさ」が発揮できるのは、確かにそうかもしれない。
また、この話はつい先日の坂本龍一氏の発言ともリンクした。
クラシックと伝統芸能の「不自由さ」
この「10個のリンゴ」のたとえはとても興味深い。
自由で変幻自在な演奏で知られるブルース・リウ氏が、これほどの「自分らしさが発揮できる余地の少なさ=制約」を感じながら「作曲家の意図(authenticity)」を研究しつつ、「自分らしさ(own personality)」を追求している点で、クラシック音楽のピアニストの本懐が垣間見えるからだ。
前の記事に書いた清塚信也氏も、クラシック音楽の演奏ということに限界を感じて作曲を始めたと発言しているし、作曲を始めるピアニストは多い。
クラシック音楽の演奏家は、どこかしら日本の伝統芸能の継承者に似ている。
制約の中のわずかな「余地」で表現に挑む芸術。
「芸術家(アーティスト)」とは言われるものの、「職人(アルティザン)」に近いかもしれない。
その「自由の狭さ」に息が詰まってしまうのが、伝統芸能の担い手がこぞって現代ドラマやミュージカルに挑戦する理由かもしれない。
疲れるインタビュー
何とか間に合って聞けた講座だったが、この10人のリンゴの絵の話以外には「音楽のつくり方」の核心に迫るような話はなかったと感じた。
食べ物がどうとかネコがどうとか、水泳はピアニストにとって良いスポーツだとか(たまたまブルース・リウ氏が水泳をやっていただけの話で、ピアニストと水泳は関係がないだろう)、音楽家に向かって「どうやって暗譜するのか?」といった質問にはがっかりした。
こういうのが多いからブルース・リウ氏からチクリと「インタビューはしんどい(tiring)」なんて答えが返ってくるのではないか?
言うまでもなく「tiring」には「退屈でうんざりした」という苛立ちの意味もある。
それに対してMC の「ごめんね~」という受け答え。
このやりとりはちょっとdisappointing だった。
一部のファンによる「内輪ノリ」が強くて、受講者が受講料を払っている一般向けの講座としては違和感を覚えた。
何よりも、音楽の英才教育は受けておらず、絶対音感もないと自ら語り、「対位法と和声の授業も悪夢だった」というこのピアニストの「音楽のつくり方」について腑に落ちたとは言い難い。
あっちにこっちに話題が上滑りしてテーマの一貫性もなく、申し訳ないが全体的に聞いている方も「疲れるインタビュー」だった。
「ブルース・リウ氏がしゃべっている」のを見るだけで満足な人もいるかもしれないが、もっと練られた切り口で「音楽のつくり方」に関するピアニストのアイディアを引き出してほしかった。
★当記事の内容(構成を含む)テキスト等の無断転載・無断使用を固く禁じます。