四半世紀くらい前、遠縁の仲良しが研修医として北海道の病院に赴任していた。
ある日遊びに行くことになり、私は妙なルートを選択した。
茨城の大洗という所からフェリーで苫小牧に行く方法だ。
当時は船が異様に好きだったのだ。
クルーズ船でもフェリーでもボートでも船なら何でも良くて、船舶免許を取りたいとすら思っていた。
この航路の船舶「さんふらわあ号」には、もっと昔クルーズ船だった頃にも乗船したことがあった。
大洗→苫小牧1泊のひとり旅の間、一冊の本を持って入船した。
一晩で読めるミステリが良いと考えたのだが、好きなパズル物ではなく、毛色の変わったものを選んだ。
小池真理子氏の『冬の伽藍』というミステリ的恋愛小説だった。
もちろん小池氏はミステリの名手だし、恋愛小説としても直木賞受賞作『恋』で有名だ。
この『冬の伽藍』を読みながら、太平洋の真っ暗な海を一晩かけて北上した。
当時の自分はすこぶる孤独だったが、その孤独がたまらなく好きでもあった。
この小説で強く記憶しているのは、
「人は強く傾倒している芸術作品さながらの人生をいやおうなしに歩んでしまう」
というテーマだった。
主人公(と死別した夫)が強く惹かれるのはトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』だ。
その作品に共鳴するパーソナリティが原因で、苦悩する人生を歩んでしまう、というストーリーだった。
この小説を読んでからしばらくして、学生時代からの付き合いの先輩と決裂するという事件があった。
理由は、その先輩がある「音楽家」に傾倒するあまり、社会的ルールを逸脱する行動を取りはじめたことをめぐって口論になったからだった。
その事件からまたずっと年月が経ってから、当時通っていた乗馬クラブで先輩そっくりの人に出会った。
奇妙な魅了を持ったある指導員の「追っかけ」をしているうちに、危険な領域にエスカレートした人だ。
目の前の展開の「既視感」にクラクラした。
それからまた時が経って、今度はインターネット上で似たようなことがあり私はブログを閉鎖した。
先日、音楽関係の仕事をしている人からある「音楽家」の来日時の話を聞いた。
以前からコンサートの際に「関係者以外立入禁止」の区域にも熱狂的なファンが押しかけ触るなどしていたそうだ。
昔、野球の松坂投手がファンから押されて肩を痛め、治癒に時間がかかり大惨事になったことがある。
音楽家を守るために、スタッフの数を増やして警護に当たったそうだ。
ところがあるイベント時、音楽家はひそかに待ち構えていたファンから不意打ちに遭い、体を触られてしまったという。
非常に恐ろしい思いをしたというので、男性スタッフを増やしたそうだ。
しかし、それでもまたどこかから現れてきて音楽家に迫ろうとする。
「もう自分が何をしているのかわかってないんじゃない?」
と私が言うと「そんなことない。」という。
なぜならそうした異常な行動の一部始終をSNS に書き綴って公開しているのだと言う。
それも実名顔出しなのだそうだ。
この話が一番怖かったのは「この人だよ」と言ってその SNS を見せてくれた時だ。
私が閉鎖したブログに関連した、登場人物のひとりだった。
自分自身、こういうタイプはものすごく苦手なのに、どういうわけか人生の中でちょくちょく遭遇してしまう。
「なんでだろう?」
ある時、昔、太平洋上で読んだ『冬の伽藍』を思い出した。
「人は強く傾倒している芸術作品さながらの人生をいやおうなしに歩んでしまう」
というやつだ。
「熱狂的ファン」?「追っかけ」?「ストーカー」?
私は長いこと「追っかけ」「ストーカー」の物語の原型は何だろう?と考えていた。
そしてストーカーものの映画やドラマの元祖は何だろうと思った。
だがその瞬間、この物語の「最古」の形は、ビゼーのオペラ『カルメン』ではないかという気がしてきた。
『カルメン』は1875年初演の作品だ。
まさに「恋愛感情のもつれによるストーカー殺人」を描いている。
『カルメン』といえば、心当たりがある。
10代の頃、私はこのオペラに傾倒するあまり歌詞と台詞をほぼ暗記するほど聞き続けていた時期があったのだ。
声楽を習っていたので、もちろん有名なアリアは歌ってもいた。
でも主として「観客」の立場から陶酔していた。
私が若い頃、同じく傾倒していた哲学者ニーチェもまた、このオペラの虜だったという。
今では『カルメン』を聴きたいと思うことはない。
しかし、若い頃『カルメン』に強く影響されたことによって、その後の人生で頻繁に「ドンホセ」気質の人に出会ってしまったのだろうか?
でも自分が「カルメン」のように追われ続ける立場というより、大抵は事件の目撃者、傍観者だ。
これも『カルメン』のいち「観客」として傾倒していたおかげかもしれない。
魔性のカルメンに陶酔して自分がドンホセの標的にならなかっただけ幸運だ。
「カルメンの呪い(curse)」に気づいたことで、過去に起きてきた不快な事象のからくりが解けた(break)気がしてきた。