「まだ若い」と「もう若くない」の狭間もしくは深淵

過去1年間、余暇のかなりの時間を美術館(博物館)で過ごしていた。

人生でこれほどミュージアムに通いつめたのは初めてだ。

コンサートに行くこともあったが、断然ミュージアム体験の方が濃くなっていた。

 

「芸術」という括りで考えると、成人する頃までは「音楽」、学生時代は「文学」、そして最初のキャリアチェンジ(ほぼ失敗に終わったのだが)で携わったのは「美術」だった。

その後は芸術とはあまり関係のない仕事をしてきた。

仕事以外では、趣味として一番時間を割いてきたのはスポーツだった。だから「芸術」とはうっすらした関係しかないような気分で過ごしてきた。

 

それがここにきて「美術」にどハマりして自分でも驚いている。

「芸術」として激しく心を揺さぶられるのは「美術」(広義でのアート)だとすら思い始めている。

もしかしたら歳をとってようやく造形芸術を理解できる精神が生まれてきたのかもしれない。

醜悪な「音楽」は聴くに耐えないし、人間の汚さ醜さに焦点を当てた「文学」(私にとっては日本の近代文学だが)もまるで好みではない。

若い頃は、だから好みが激しくて、文学だけでなく演劇においても「醜悪さ」を描いた作品を怖れてすらいた。

でも歳をとった私は「ほとんど闇」といっても良いほどの暗黒を描いたアートに対峙する。

すすと、魂が身体から抜け出すのではないかと思うほどの感動を受ける。

「人間の複雑さ、醜悪さ」が、造形芸術においては自分の中の何かに強く訴えかけてくる。

趣味のアクティビティとしては、造形芸術作品に「会いに行く」ということの重要度が、「山の空気がないと窒息しそうな人」のレベルにまで上昇している。

 

プルーストの『失われた時を求めて』の最初の方に、主人公が大女優の名舞台を鑑賞するのだけど、当日その名演技を目の当たりにして「全然集中できなかった」話がある。

正直、昔の私は「あるある」と思っていた。

音楽のコンサートでも期待が膨らみすぎていて、妙に気を張りすぎていて演奏の時間に没頭できない悲しい現象のことだ。

若い自分はいつもそうやって何かを無駄にして嘆いていた。

対して現在、アート作品を見つめ合う年取った私は「ゾーンに入ってんのか?!」というほど集中して吸い込まれるような感覚を覚える。

平均律の練習をしている時でも、一人でベートーベンのソナタを弾いている時でも、これほどの全集中はできない人間がだ。

 

若い頃、美術(アート)の良さが本当は全然わかっていなかったんだなと気づいた。

周辺的な知識や、(仕事だったこともあり)作品のコンディションやエスティメイト価格とかそんなことしか見ていなかった。

それはペットや商売道具にするとかの理由で飼育されている動物を、出自や種類や血統でしか分類していないようなものだ。

晴天の霹靂のごとき「技法」とか、感受性を持って受け止めてなかったなと振り返る。

 

3〜4年に及んだコロナ禍のどこかに、「まだ若い世界」と「もう若くない世界」の分水嶺があったに違いない。

ありていに言えば「更年期」ということかもしれない。

でも「Aだったこと」がそうではなくなり、「Bじゃなかったこと」が実際そうだった、という空前絶後の「認識の転換」を感じることが多々あった。

その個人の心理面での「激動期」の中で、ものの感じ方、捉え方、考え方が大変動したのかもしれない。

 

「更年期」と書いたが、これはあくまで方便で、大体40〜60歳くらいの人間には起こりうることなんじゃないかと思う。

「ミッドライフクライシス」とも言える。

「まだ若かった」と「もう若くない」の間には真っ黒な深淵があって、あまり思いつめてみない方がいいかもしれない。

 

美術館を彷徨うように巡りながら、「まだ若い」「もう若くない」の隙間に落ちてしまったのか、浮遊霊のように所在ない気持ちになることもあった。

 

でもこの転換期はたまたま「この時期」に訪れただけの「心境の変化」かもしれない。

よくわからない感覚なのだが、それを「感じている自分」というものだけは揺るがしようがない。

若い頃「キラキラした美しい世界」しかキャッチしようとしなかった視界には、「ドス黒い感情や歴史」がはっきり見えるようになってきた。そしてそれは「嫌じゃない」。

 

40〜60歳くらいの間ではないかと上に書いたが、他の人はいつ「自分はまだ若い」と思ったり「もう若くない」と思ったりするんだろうか?

ある日を境に?それともある瞬間?

そんな疑問への答えが見つからないまま、今もミュージアム巡りを続け、「言葉」を発しない作品に「吸い込まれる」ために出かけていく。

更年期の「深淵」をどうにかやり過ごすために、私にとってはアートが救世主なのかもしれない。