日本は治安も良く、民間のサービスは至れり尽くせりが多いし、公衆衛生も高い水準だ。
体調が悪くなって病院に行けば公的支援が得られる。
見た目は美しく、心打たれることも多い。
でも実際のところ、ひとたび何かの拍子にぬかるみに足を突っ込むと、全身引きずり込まれて立ち直れなくなるような罠はそこらじゅうに転がっている。
ふとした買い物、運の悪い転職先、たまたま出た電話etc.
SNS上で知り合った彼女も、そんな事故のひとつに遭遇したようなものかもしれない。
「こんなはずじゃなかった、どうしてこんな目に?」
遭遇しない人は気づかないかもしれないけど、この一見平和な国ではこうした不運に出会った時、思いもよらぬほど救われないことがある。
表向きの顔とは別の一面があるという意味では、彼女自身にも似ている。
「投稿」の美辞麗句、哀れな被害者、悲痛な叫び、正義の希求といったトーン。
「DM」の中で見せる怨恨感情、自尊心を傷つけられたことへの憤怒、意趣返しの欲望、激情の吐露。
誰にだって裏表はある。
極端に振れてしまうこともある。
だからできるだけ平衡を保って自分を維持しようとしている。
彼女の主張のうち、かなり大きな部分は「事実」であり、客観的に見ても彼女に正当性がある。
でもやっぱり100%ではない気がする。
トラブルの発端となった相手方のうち直接的に彼女と関わった人物は、実は随分前にある程度の制裁は受けている。
だが彼女の復讐心はそれでは満足しない。
相手に対してもっと大きな罰を与えなければ気が済まないのだろう。
彼女にとっては民事的な金銭解決では「罰」にならない。
だからもっと大きな声をあげることにしたのだ。
彼女はついに「投稿」でも攻撃性の片鱗を見せ始めた。
ますます過激化していくのを見て「このままでは得られるものまで失ってしまうかもしれない」「まだ法的紛争が続いているのに相手に手の内を見せるのは不利だ」と思ったから、それを伝えた。
けれども彼女は頑なだった。
狂気を感じるほどの信念だった。
だからそっと離れた。
それからしばらくしてまたDMが来た。
「アキラさん、◯◯さんをまだフォローしてませんね?有益な情報を持っていそうなアカウントなのでお知らせします」
それを見て、うっすらと背筋が寒くなった。
彼女にはもうずっと前に「自分が疑念を持っている事件については証拠が取れないし、もう追うのはやめた」と伝えてあったからだ。
「SNSは(情報収集のためでも人と繋がるためでもなく)自分が思ったことを呟く使い方をしている」
もう一度だけ、伝えた。
それに対する彼女の返事には、何となく悔しそうな空気が漂っていた。
その悔しさは、私に対する「お悔やみ」を表しているわけではないようだった。
そうして彼女はSNS で、いっそう自分が抱えている困難の主張を拡大していった。
つまり「これは個人的な問題ではなく社会正義の問題だ」と。
一日中訴え続け、フォロワーを増やしていた。
正しい意味での「フォロワー」つまり「信者」だ。
私が「信者」にならなかったことが、彼女の気に入るはずはない。
ここでようやく私ははるか昔のあの「冤罪事件のヒーローを支援していた団体と大学教授」のことを思い出す。
彼らが信じていた人物はシリアルキラーだった。
関与が疑われた事件の中には、もしかしたら「シロ」だったものがあるかもしれない。
だけどそれは限りなくグレーに近い白だと思う。
でも彼らは一貫して「汚れなき無実の人」だと感情的に訴えていた。
知らず知らずのうちに洗脳され、引きずり込まれ信心深い「フォロワー」となるのもこの仕組みなんじゃないか。
ああそうだ。
あの激情の人たちをごく若い頃に見聞きしていたから、自分はずっと「感情的であることが怖い」んだと思った。
世の中は白黒つけられないことが多い。
それは白と黒がそれぞれあるんじゃなくて、白と黒はつながっていて境界線もないからだ。
白の方だと思っていたのに、気づかないうちに黒の方にいることがあるからだ。
人が人を見極めたり裁いたりすることが難しいのはこのためだ。
それは恐怖ですらある。
彼女は今もずっと正義を叫び続けている。
(続)