「守り」に入りたくないプレ老後の決意

ある程度の大人なら誰でも大概「自分ってこういう人間」と思っているんじゃないか?

ネガティブな意味で「こんな自分」という面もあるだろうし、「こんな自分」をポジティブに受け入れようという面もあるだろう。

脳内物質の分泌の加減で「こんな自分」に高揚感を覚えることもあれば、「こんな自分」に嫌悪感を抱くこともある。

浮き沈みの「波」は、そこそこ生活や人生のリズムとして飼い慣らされるものだ。

しかし「ミッドライフ・クライシス」の一種なのかもしれないが、その単調な「波」に「船酔い」しそうになる時がある。

 

更年期というのは、思春期と同じ激動期なのかもしれない。

思春期から青年期の悩みは、「将来があまりにも不確定的」という要素が大きく、膨大なブランクを自分で埋めていかなければならない。

逆に更年期から老年期の悩みは、「将来があまりにも確定的」で、もうそれほど埋めることができるブランクがないことだ。

何をあがこうか充実しようが、お釈迦様の言葉通り「老、病、死」に向かっている。

運よく「病」を免れるケースはあるが、他の2つは逃れようがない。

また、若い頃は「未知」だからこそ果敢にやってこれたことが、「知」りすぎたが故に「慎重」になりすぎることも多い。

だけど、自分より年上で「守りに入っている」とか「損するまいと必死な人」を見ると、「やっぱりか」とげんなりする。

 

今の時代は、インターネットという「ひみつ道具」によってあらゆる情報が手に入る。

昔だったら「空想」「ロマン」「神秘」だったようなことも、「知識」「現実」をこの上なく鮮やかに知ることができてしまう。

「心理学」や「脳科学」といったジャンルの専門知識も、一般向けに広く認知されるようになった。

だから、それまで「宗教」が支配していた人間の「心の世界」は、もっと科学的に捉えられるようになり、「偶像」としての宗教の役割は「ブランド」「アイドル」が担っている。

「解けない謎」が少なくなっただけ、現実は可視化され、「退屈」を感じやすい世界になった気がする。

 

話が逸れつつあるが、現在の私がアイデンティティに揺らぎ、単なる「波」に「船酔い」しそうになっている原因はいくつかある。

ひとつ目は、「なんちゃって」程度であるものの今春から始めた大学の非常勤講師職。

身内にはこの業界の人間がたんまりといる。

経験的に総括して、私の知っている「大学の教員」は、十中八九バカだ。

これには現在進行形で自分も含まれる。

「大学の教員」をしていると、どんどんバカになっていく「超リアル」な感覚がある。

「バカ化」の病状の悪化において、初めは「日本語で喋りすぎるせいかもしれない」と思った。

自分の「言語のバランス」も急激に崩れて、外国語が喋れなくなっている感覚が強くなった。

情けないことに、週にたった数コマの仕事なのに脳の働きが悪くなっているのを実感する。

昔『バカの壁』という本が流行したが、本当に「思考停止」しそうだ。

内言語のバランスまで崩れて、「波」はますます高くなっている。

 

「ミッドライフ・クライシス」による悪質な船酔いの2つ目は、単純に自分自身への「苛立ち」にある。

初期症状として、他人の言動に妙に腹を立ててしまう。

何に腹を立てているかというと、人との距離がまた近くなったことによる「パーソナルスペース侵害」だとか、軽くいなさなきゃならない、くだらないマウンティングだとか。

まるで思春期の人間関係の模索期の再来みたいなことになってしまった。

要するにアイデンティティに強烈な「揺さぶり」がかかっている事態だ。

 

やっぱり更年期は第2の思春期なのかもしれない。

ひとつ決めていることがある。

思春期なのだとしたら、再び全力で自分をさらけ出すのも悪くないな、と。

自分の中で「嫌だ」と思うし、他人を見て同族嫌悪を抱くのは「守り」に入った姿だ。

守って固めて、鎧を付けて、いなして、逃げるんじゃなくて、「嫌だ」と思うことに真っ向からぶつかって粉々になって、世界観を再構築したい。

思えば、昨年あたりから、妙に予定調和的に守りに入っていた。

保守的で物分かり良い自分を演じて悦に入っていたのが恥ずかしい。

プレ老後だけど、思春期のような「戦い」をしようと、ダサく熱く決意した。