「年齢は関係ない」の本当の意味

現在の居住地は、周辺住民もおとなしく礼儀正しい人が多い。

道にゴミが落ちていることもほとんどない。

だがそれ故に、稀にゴミが落ちているとものすごく目立つ。

珍しく目を疑うような行動をする人がいても、かなり印象に残る。

前者の例では、年に1~2回歩きタバコをしている人。

後者は、近隣の無印良品の店で「ボールペン1本」をめぐって大声で店員さんにクレームをしていた人だった。

はっきり書かせてもらうと、いずれの例も高齢男性だった。

「ああいうふうにはなりたくないな」と思った。

 

知人がある時愚痴っていたのは、ボランティアで関係のある高齢女性のことだった。

「どうして常に他人に対して自慢ばかりしてるのか...」

自慢話のネタは本人ではなくて家族の話が多いそうだ。

旦那さんや息子やらがいかに「賢かった」か「偉かった」かetc.

また本人の過去の栄光なのか「若いころいかにモテた」かという自慢もよく聞くそうだ。

「なるほど」と思ったのは、私の身内にもそういう女性がいるからだ。

もっとも彼女の場合は高齢になって自慢屋になったわけではない。

もっと若かった頃から周囲がちょっと困惑するような気位の高さだった。

そして常に「自分が実年齢より若く見えているかどうか」を気にしていた。

「そんなふうにはなりたくないな」とやはり思った。

 

「中年」という地点を通過しながら、最近よくわかったことがある。

昔からうすうす感じていたけれども、実際に自分が中年になってようやくはっきりと認識したことだ。

それは「年齢は関係ない」という言葉の、本当の意味だ。

ポジティブでアクティブな中高年の人はよく

「年齢は関係ない。だから、年齢にこだわらずに何でも挑戦したい。」

というような表現をする。

もちろんそれは良いことだと思うし、現に自分もしている。

でも、私がちゃんと理解して、ぞっとしたのは逆の意味だ。

それは「(魂の成熟度においては)年齢は関係ない。」ということだ。

要するに、年齢が高いから人間性が完成されているわけではなく、年齢は若くても魂の成熟度が高い人はいる。

 

たぶん自分が中年になるまでにそのことを「経験=体感」したから、高齢者の「みっともない」言動にザワザワするのだ。

老害」という言葉はあまりにも苛烈だが、「成熟している(べき)(はずの)高齢者なのに実際は...」という落胆と嘆きが生んだパワーワードなのかもしれない。

なぜなら「未熟」のイメージは「若さ」であり、「成熟」のそれは「老い」というのが既成概念なのに、その逆の現実を突きつけられるからだ。

でも、実際には若くても礼儀正しく、思いやりがあり、自分をひけらかさない人がいる。

逆に年齢を重ねているのに無礼で、他人の迷惑を顧みず、人をドン引きさせることを言う人がいる。

そうした「人間性」というのは、まさに「年齢は関係ない」と感じる。

高齢者の悪口を言うのが本意というわけではない。

ただ自分としてはこれから向かっている先の存在として、「人の振り見て我が振り直せ」と戒めたいと思う。

中年になって、それまでにさまざまな経験を積んだことによって、若かった頃よりも「楽だ」と感じることが多くなった。

それはもちろん喜ばしいことではある。

しかし落とし穴もあると思う。

「楽」になりすぎて、ずうずうしくなっていないか?自分勝手なことをしていないか?気づかず偉そうな態度をとっていないか?周囲をドン引きさせていないか?

いろいろやっぱり気を付けた方がいい気がする。

「楽に生きる」ことと「楽すぎる」ことの差は「皮一枚」なのかもしれない。

 

以前は年齢を重ねる上で「尊敬できる年長者」を探しつつ、自分の中ではロールモデルとしてイメージしてきた。

でも、今は生きるうえで「尊敬できる人」に「年齢は関係ない」と思うようになった。

 

そして人間性や魂の成熟というものが年齢に関係ないとすると、いっそう気を付けたいのは、自分が年齢を重ねたから「成熟」したなどと、思いあがってはいけないということだ。

特に自分よりも若い人に相対する時に、このことを忘れないようにしたい。