『リバーサルオーケストラ』とピアニストブーム

清塚信也氏の「虚像」

日本テレビ2023年1月期水曜ドラマ『リバーサルオーケストラ』を何となく見続けている。

きっかけはチャイコフスキー交響曲第5番を編曲したテーマ音楽だった。

TVer が存在しなかったら毎回続けて観ることもなかったと思うが、すき間時間とか食事をしながらせっせと見続けている。

それほどドラマや映画に詳しい方ではないが、チャイコフスキーの第5交響曲をメイン音楽にした作品は初めてだった。

他にブラームスや、あの「ハノン」の「ドミファソラソファミ...」まで編曲して採用している。

今まで使い古されたクラシック音楽を挿入しない方針なのだろう。

フレッシュで印象的なこうした「編曲」が面白くて、毎回欠かさず観るようになった。

この編曲担当がピアニストの清塚信也さんなのでいっそう興味を引かれた。

清塚さんの存在を知ったのは、相方が観ていた「ワイドナショー」というバラエティ番組でだった。

「幼い頃からピアノしかやっていないからバカなんです」

みたいなことを言い、本当にちょっとズレた言葉足らずな喋り方をしていた。

その時はちらっとそんな様子を見ただけだったが、その後NHK Eテレの音楽番組でMCをされているのを見て仰天した。

(何と頭の回転の速い、説明の上手な、センスの良い語りの人だろう!)

フジテレビのバラエティでは、おそらく台本があって「バカな役割」と書いてあるのだろう。

だから清塚さんは「ピアノしかできない世間知らず」の虚像を演じていたに違いない。

危うく騙されるところだった。

これだから、テレビはク〇なんだよ!と改めて気づかされた出来事だった。

 

「良い耳より容姿が大事」なピアニスト

清塚氏と同じように、多くの若手のピアニストが最近非常に脚光を浴びている。

コロナ禍の2021年に開催されたショパンコンクールが「ネット配信」という絶妙な方法で世界にアピールしたことも大きかっただろう。

コロナ前だが、藤田真央さんがチャイコフスキーコンクールで2位になり、昨年にもロンティボーコンクールで日本の亀井聖矢さんが1位を獲得するなど才能ある若手ピアニストが次々と出現している。

クラシックに限らないが「興行」というビジネスは昔から浮き沈みが激しい。

コロナ禍で辛酸をなめた興行主も今ようやく「巻き返し」の時だから、派手派手しくコンサートビジネスの復興に力を入れている。

一方で、こうした「ビジネス」としての「ピアニストブーム」に苦言を呈する人もいる。

www.yomiuri.co.jp

実名こそ伏せられているものの「国際コンクールで名を挙げた若手の演奏に話題が及ぶと眉をひそめた。『音楽家としての精進を商売と取り違えている。』」と痛烈に批判をしている。

しかしながらこうした状況は「構造的な問題で、もはや解決不能だ」というのがアファナシエフ氏の見解だ。

ここには「芸術」VS「興行=ビジネス」という古典的な対立がある。

これを弁証法のごとく「対立の統一」的に?超克してみせたのが20世紀の「魔術師」もとい「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンかもしれない。

クラシック界における絶対的地位と同時にビジネスとしても大成功し、20世紀の大発明コンパクトディスク(CD)とともにあった。

こうしてクラシックが大衆化された後でも、「芸術」VS「ビジネス」の根本的対立は今もなおくすぶり続けている。

ところで、当たり前のことだが「ピアニスト」とは「演奏家」だ。

演奏家」ではあるが「作曲家」ではない。

この点についてアファナシエフ氏の記事と同時期に興味深いことを語っていたのが坂本龍一氏だ。

 

作曲家を「称える」ピアニストの仕事

記事のタイトルにもなった坂本氏の面白い発言を聞き出しているのが、冒頭の清塚氏である。

coconutsjapan.com

「作曲家よりピアニストとして活動をするというお考えは無かったでしょうか?」という清塚氏の質問に対して、坂本氏は「生まれてから一度も無いです。」と答え、その理由も述べている。

「ピアニストは人の曲を弾きますよね、しかも大昔に作られた曲なども。それはつまらないなと思います。」

ピアニストならではの質問だと思うが、坂本氏の発言への反応としては清塚氏よりも俳優の古田新太氏の発言が印象的だ。

「これは俳優でもそうだもん。『シェイクスピアやっぱ面白いね』って言われると腹立つよね、こっちは。『「リチャード三世」が面白いんじゃなくて俺やろ』っていう」

煎じ詰めれば、「ピアニスト」とは「俳優」とまったく同じく「解釈し(interpret)演じる(interpret)」芸術であり、「作曲家」のような「創造する(create)」類の芸術ではないということだ。

シェイクスピアと言えば、文学研究でも同じことが言える。

「創造性」を追求したい人は「作家」を志し、「研究と解釈」を追求したい人は「研究者」を目指すみたいなものだ。

似ているようで似ていない両者は、それでも雑に「芸術家」とか「アーティスト」と一くくりに呼ばれ、挙句の果てに偶像視(=アイドル化)され崇拝される存在になってしまう。

つまりワレリー・アファナシエフ氏がうんざりしているところの「構造的な問題」がそれだろう。

 

「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」

ストラヴィンスキーの有名な言葉だと思うが、奇しくも『リバーサルオーケストラ』の一場面で台詞の中に登場した。

脚本家がこの言葉をわざわざ引用したのには理由があるのかどうか知らない。

ストラヴィンスキーのものとして知られているこの言葉を英語サイトで探索してみたのだが、「音楽は音楽以外の~」のくだりにはとても奥深いいくつもの言説が見つけられる。

とりわけ、感情を揺さぶられることを求めて「麻薬のような」気分を味わうために音楽を聴くのには価値がないとさえ断言している。

ピアニストブームに沸く現在の聴衆への苦言とも解釈できそうだ。

I consider that music is, by its very nature, essentially powerless to express anything at all, whether a feeling, an attitude of mind, or psychological mood, a phenomenon of nature, etc….Expression has never been an inherent property of music. That is by no means the purpose of its existence.

私は、音楽は本質的に、感情、心の態度、心理的な気分、自然の現象などを表現する力において、本質的に無力であると考えています。

表現が音楽の固有の特性だったことはありません。 それは決して音楽が存在する目的ではありません。

If, as is nearly always the case, music appears to express something, this is only an illusion and not a reality. 

ほとんどの場合、音楽が何かを表現しているように見える場合、それは単なる幻想であり現実ではありません。

Most people like music because it gives them certain emotions such as joy, grief, sadness, and image of nature, a subject for daydreams or – still better – oblivion from “everyday life”. They want a drug – dope -…. Music would not be worth much if it were reduced to such an end. When people have learned to love music for itself, when they listen with other ears, their enjoyment will be of a far higher and more potent order, and they will be able to judge it on a higher plane and realise its intrinsic value.

ほとんどの人が音楽を好むのは、音楽が喜び、悲しみ、悲しみ、自然のイメージ、空想の主題、さらには「日常生活」からの忘却などの特定の感情を与えるためです。 彼らは薬物、麻薬を欲しがっています。 そのような目的に還元された場合、音楽はあまり価値がありません。 人々が音楽を自分自身で愛することを学んだとき、他の耳で聴くとき、彼らの楽しみははるかに高度で強力なものになり、より高い次元でそれを判断し、その本質的な価値を認識することができるようになります。

Igor StravinskyAn Autobiography, 1935, Calder and Boyars ed., 1975, 

「麻薬」としてさまざまな感情を引き出すための「手段」として使われる音楽。

現代の音楽の在り方から見れば、自分の「感情」を味わいたいからという理由以外で音楽を聴いている人は限りなくゼロに近いのではないだろうか?

そして人々の「感情」に作用するという点を最大限に利用するのが「プロパガンダ」への音楽の利用である。

『リバーサルオーケストラ』のテーマに用いられている作品の主、チャイコフスキーは、第三帝国のドイツにおけるワーグナーと同じようにロシアにおいて国家や愛国心と関連付けられてきた作曲家だ。

特にドラマの主題に用いられている第5交響曲第二次世界大戦という「戦争」との関わりが強い。

けれどもストラヴィンスキーの「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」というテーゼは、ドラマに使われているチャイコフスキーの音楽はロシアの権力者によって掲げられるイデオロギーともまったく関係がないと断言している。

〇〇さんのピアノを聴いて「~~な気持ちになりました!」という多くの聴衆の個人的な感想と同様に、音楽には何の関係もないのだ。

クラシック音楽、とりわけピアニストのブーム。

「芸術」であると同時に「ビジネス」でもあることの相克だけなく、「創造者」ではなく「解釈者」であるという制限の中での活動。

演奏家が自由に使える「キャンバス」は、本当にあまり大きくないのだと感じる。