昨年、あるプロジェクトのパートナーがケガをしてしまった。
多少動きのある仕事だったので、代わりの人を探した。
英語の運用能力が必要だったが、丁度良い具合の方はいなかった。
世の中に「英語ができます」という人は多い。
でもその「英語の質」が重要だということは、実はあまり知られていない。
特に、通訳翻訳が絡んでくるような場合、日本では「帰国子女ならカンタンにできる」と考える人が圧倒的な気がする。
でも実際には、帰国子女(子ども時代に海外に居住していた)だからとか、海外で暮らしたことがあるから外国語の運用能力が高いとはいえない。
さらに帰国子女の場合、母語の日本語の方に「難」があるケースをよく見聞きした。
(また通訳と翻訳を同じスキルだと思っている人も多いが、全然別物だという点もあるが、これについては記事を改めたい。)
最近ネット記事で、某宮家の長女がアメリカで博物館学芸員としてのキャリアを求めているらしいというのを読んだ。
がしかし、日常英会話は問題ないものの、専門家としての学術的な語彙と表現力に問題があり、要は英語の水準が必要なレベルまで到達していないという内容だった。
「さもありなん」と思った。
「英語が話せます!」というのと「英語で仕事ができます!」というのはまったく意味が違う。
「表面的な会話はできるが、深い話ができない」という状態についてよく「セミリンガル」という言葉が使われる。
「セミリンガル」にはネガティブで侮蔑的な含意があるが、意味としては「母語ほどは運用できていない」場合に使われているようだ。
でも、はっきり言って母語の運用能力だって当然、千差万別だ。
会話だけでなく「頭の中だけの思考」にしても、ものすごくロジカルに思考する人もいれば、10文字程度でシンプルに考える人もいるだろう。
もっとひどいことを言えば、「思考」がなくて「感覚と感情」だけの人もいる。
そうした個々の本質的な面もあるが、それでも対外的な会話やちゃんとした文章においては上述の語彙力や表現力において「レベル」というものがあり「質」が求められる。
個人的には、英語やフランス語の運用においては、最低限「なぜなら」「だから」というロジックの組み立てで話せる、書けるという点が大事だと考えている。
つらつら連想式に思いついたことをつづる日本語的な構文を直訳したようなのは不利になることが多い。
さて「マルチリンガル」について。
以前、10年ほど「マルチリンガルな仕事」をしていた。
その頃、どんな言語生活をしていたか1日の流れを思い出してみる。
朝起きると、相方は仕事に出ていてもういない。
だから日本語は浮かばず、まだ脳は覚醒していない。
在宅で仕事していることが多く、今で言う「ノマドワーカー」を先駆けてもいた。
メールを開いてフランスとのやりとり。
英語でも通じるが、相手がフランス人なので習慣的にフランス語。
業務開始。ドキュメントを開く。英語とフランス語の文書。
まずは「英語脳」で内容をじっくり読み込む。
それから「フランス語脳」に切り替えて英語の文書との間に致命的な差異がないかを検証。
午後になって、別のタスクが送られてくる。
これは日本語なのだが、めちゃくちゃな日本語だ。
原文を参照するとイタリア語。
午後は「イタリア語脳」にスイッチを切り替える。
再び日本語の文書を精査する。
夜、業務終了。
相方が帰ってきてから、日本語で会話をする。
就寝前に一日の振り返りを(頭の中で)する。
「英語」で振り返る。
「フランス語」で振り返る。
「イタリア語」で振り返る。
最後に「日本語」でも振り返る。
このプロセスがデフォルトになっていた頃は、いつも時間がいくらあっても足りない感覚があった。
また脳の疲労感が、長距離ジョギングをした後のようだった。
だからその回復には、半端なく睡眠時間が必要だった。
さて、コロナ禍の過去3年を含めた数年間のうちに、こうしたマルチリンガルな環境は完全に失われてしまった。
英語とフランス語をそれぞれ単独で使うことはあった。
そうなって、自分に「ある異変」が起きていることに気づいた。
「言語のスイッチ」がうまく切り替わらなくなったのだ。
何の言語も浮かんでこずぼーっとしていることが多くなり、何だか「いや~な感じ」がするという現象も発生した。
後者については多分、マルチリンガルで仕事をしていた時は、脳が忙しくて何かを悩むとかぼーっとするという暇がなかったのだと思う。
人間、暇だと余計なことを考える時間ができて何かを悩み出す、ということはよく言われるが、まさにそんな感じだ。
コロナ禍でとにかく時間が余るようになってから、言語にしても日本語すら使用する機会と時間が激減した。
最大の異変は、頑張って「英語脳」「フランス語脳」を使用した時に起きる。
1か月ほど前、今春から開始する仕事の件で、形式的なものではあるが所謂「英語面接」があった。
当日の1週間くらい前にふと「英語脳」のスイッチが入らないという感覚に愕然とした。
あわてて起きている時間のほとんどを英語を聞き、読むという刺激を加えて過ごしているうちに、何とかスイッチが入った。
若い頃持っていたキューブ型のマック(PC)の調子が悪い時、バン!バン!と叩くとシュパッと動くようになったことを思い出した。
無事、面接が終わって「英語脳」のスイッチを切った時、また異変が起きた。
「日本語が戻ってこない...」
頭の中がずっと英語のままだ。
昨年の秋ごろにも同じことが起きた。
数日間「フランス語脳」で過ごした後、しばらく日本語で文章が浮かばなかった。
脳内でぐるぐるぐるぐるフランス語が聞こえてくる。
育った家庭の特殊環境のせいで、私には母語の日本語の他に幼少期から高校生くらいまで慣れ親しんだ言語があった。
今でもその言語が不意にテレビから聞こえてくると、ネコみたいにイカ耳になってしまう。
その後環境が失われたために、自分にとっては音声としては「消失した」言語だ。
分かるところもあるものの、やっぱり分からなくなる感じ。
「こうして、人は言葉を忘れていくんだな...」
不要になった言語なら消失しても現実的に問題はないだろう。
しかしこの超モノリンガルな日本で、母語の日本語が不自由になったらまずいではないか?
そう考え直して、しんどい時でも日本語で文章を書くことを続けようと思った。