源実朝の「性的指向」とジェンダーフリーでブログを書く理由

モヤモヤするYahoo 検索サジェスト

このブログを始めて間もない頃、去年挫折した旧ブログが Twitter で言及され、それがきっかけで5ちゃんねるで「炎上」事件があった。

もっとも「炎上」したのは私のブログではなく、連日コメント欄を占拠していた人たちの方だ。

私はインターネットの世界では比較的ラッキーな人間だと思っている。

SNS はあまり活用していないが、他にも複数のブログをやっていて、それまで面倒くさいトラブルに遭ったことがなかった。

コメント欄がオープンなブログもあるし、設置していないブログもある。

モノや食べ物の案件が入るブログもコメント欄は設置していないし、どっちでもいいと思う。

でも理由はいろいろあるが、どちらかといえば個人的にはコメント欄はオープンな方が好きだ。

コメントのやり取りは本来楽しいものだし、コロナ以前にはそこからリアルで会った人もいるし、そういうのが嫌いじゃないのもある。

しかし、コメント欄に端を発した旧ブログの件は、自分のブログ歴の中では遺恨を残した。

「Yahoo 検索」ではそのブログ名(=外国映画のタイトル)を入力すると旧ハンドルネームが「サジェスト」「予測変換ワード」の上位に出ていて、イヤだなあと思っていた。

Yahoo のポリシーが変わったのか分からないが、先日からようやく表示されなくなってほっとした。

自分の件は一件落着したようだ。

しかしここ最近は「源実朝」に異変が起きている。

記事でもよく書いている「源実朝」の名を「Yahoo 検索」に入れると次のワードがサジェストで出てくるのだ。

源実朝 男好き」

未だかつて「源実朝」というワードの予測変換やサジェストにこんなことは起きたことがなかった。

Yahoo 検索ってなんか変。

過去の記事でも書いたが、源実朝を「同性愛者」(LGBTQ)とするのは大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の脚本家、三谷幸喜氏の設定であり(研究論文は存在するが)確定した事実ではない。

中学生の頃から歌人源実朝が好きな私としては、彼の「性的指向 sexual orientation」についての「現代的解釈」はどちらかと言えばどうでもいい話だ。

(「性的指向」を「性的嗜好 sexual preference」と混同する人がいるが間違いである)

でも「源実朝 男好き」というワードには違和感がある。

実朝の父、源頼朝は「女好き」と言われてきたが、「女好き」と「男好き」は対等ではない気がするし「偏見」も感じる。

prerougolife.hatenablog.com

「自分と同じ」と思いたがる習性?

そうした「違和感」から、再度旧ブログのトラブルを振り返ってみる。

私は旧ブログを始めて間もなく「嫌な予感」がしたのもあり、自分の素性が推測できる要素を徹底的に排除していた。

それにも関わらず不思議なことがあった。

コメント欄を自分の日記帳のように使ったり、長文ポエムを綴っていた人たちは、なぜか私のことを

「自分と同世代の同性=アラ還の女性」

だと思い込んでいたようだった。

一時はネット上に自分についての誤った情報でも出回っているのかと邪推したほどだった。

1000字を超えるポエムコメントも参ったが「属性の決めつけ」はもっと不快だ。

返信も反応もしていないのに、一方的に距離を縮めてきて窒息しそうだった。

リアルの世界でこんなに「べったり」した人たちに会ったことがない。

私自身の「偏見」を敢えて述べるならば、

「女性は共感する相手を『自分といっしょ』と思い込みやすい」

「男性は共感する相手を(勝手に)理想化しやすい」と感じる。

ちなみにブログという媒体が「成功」する上で一番重要な点は「読者の属性」を設定し、ターゲットに対して最適な内容を提供することだと言われる。

そして(「偏見」の続きだが)人は自分と同じ属性の者同士で群れたがり、群れの中で優劣を付けたがることが多い。

だから私は他のブログの「設定」では「性別、年齢、既婚/未婚、子あり/なし」を明確にしている。

そんなふうにネットでもリアルでも、普通はある程度「共通の属性」同士が適度な距離感で付き合っていると思う。

 

ジェンダーフリー」な日本語

でも本心では「そういうの現実の延長みたいで、もういいかな...」と思っている。

だからこのブログは自分の他のブログに対する「アンチテーゼ」だ。

それに日本語で文を綴る場合、わざわざ書かない限り「ジェンダー」は不明のままだ。

英語以外のヨーロッパ言語だと名詞(付随して形容詞にも)「性」があり、話者の「性一致」というのがある。

だから、例えばフランス語でもイタリア語でもひとつ記事を書くだけでジェンダーは剥き出しになる。

でも日本語だったらすべては「あいまいなまま」でまったく不自然でない。

上記の「性」のある言語における性的少数者は、あまりハッピーではないので、いろいろ「工夫」をしているらしい。

例えば "Sono stanco/stanca" (イタリア語で「疲れた」)の語尾の「性」の部分、男性は「o」女性は「a」について、ジェンダーフリーにするため「@」にしていると聞いたことがある。

そうした苦労を聞くと、

「なんなら、みんな日本語を話せばいいのに!」

と思う。

太平洋戦争後の混乱期に「小説の神様」と言われた志賀直哉

「日本語は不便で不完全だから廃止して、フランス語を国語にしよう!」

と提唱した。

天国の志賀先生には、

「今世紀ではジェンダーフリー言語として日本語は最先端ですよ」

と言いたくなる。

ただ「尊敬語」と「謙譲語」は複雑で難しいから外国人が習得する妨げになる。

(先日もテレビでウクライナからの避難者が「日本語は難しすぎる」と遠い目をしていた。)

でも言葉だけではなく、明治以前の日本では「性的指向 sexual orientation」の区別はあいまいで、差別意識もなかった。

江戸時代に「Yahoo 検索」が存在したとしてもわざわざ「源実朝 男好き」なんて検索する人はいなかっただろう。

私はインターネットはリアルとは違って「性」「年齢」「既婚/未婚」「子あり/なし」といった属性を超えて人とつながれる世界だと思っている。

だからこのブログは「先進的な日本語」で「ジェンダー」という属性に縛られずに自由に書いている。

つくづく、ジェンダー性的指向、年齢を含めた「属性」を誰かに決めつけたり、勝手に「仲間」扱いするのは勘弁してほしいと思う。