3年前にコロナ禍のせいで公演キャンセルになった歌手の来日公演が来週開催されることになった。
運の良いことに、私は今月が誕生日なので身内がコンサートチケットをプレゼントしてくれた。
デジタルデトックスをしていた私は、その公演のことも知らなかった...
後で知ったら、地団駄踏んで悔しがることになったと思う。
デジタルデトックスは諸刃の剣だ。
その身内が、今月半ばになって急に「ブルース・リウのコンサートチケットもあげる」と言ってきた。
私は春からの新生活に向けての仕事と暮らしの整理中で、基本的にメルカリしかやってい暇人だと認識されたようだ。(間違ってはいない)
私にとってはこのトリリンガルのピアニストが話す3つの言語を聴くと、演奏と同様に興味をそそられる。
完全な母語はフランス語で、当然ながら一番自然で深い話し方をする。
川崎と東京の公演のどちらがいいかというので、去年、東京公演は聴いたから川崎の方がいいと言った。
初めはそれほど乗り気ではなかったのだが、ふと考えだした。
「去年の公演はスタインウェイのピアノだった...」
2021年のショパンコンクールの配信映像で、初めて本格的にファツィオリ(FAZIOLI)を聴いた。
コンクール後初の日本公演でもファツィオリで弾くと期待していたので落胆した。
実は私はピアノがあまり好きではない。
その理由は「過敏な耳」のせいだ。
目一杯鳴らされたスタインウェイのコンサートグランドの響きが、特に厳しい。
子供時代にピアノの先生が、さらに上の音大教授の練習室に連れて行ってくれた時からずっとそうだった。
「これほどの音(時々轟音)に耐えられるなんてピアニストは不思議だ」とすら思った。
その苦痛もあって習い事は声楽に変わり、ピアノも歌の伴奏的な存在になった。
もちろん歌というジャンルでも「耳がどうかなってしまう人」はいると思う。
昔「夜の女王」役で一世を風靡したエディタ・グルベローヴァのリサイタルに行って耳をやられてから、耳鳴りでしばらく耳鼻科に通った声楽専攻の人を知っている。
そんな経緯で、私はピアノ独奏を一定以上の音量で聴くと参ってしまうことが多い。
世の中にイヤホンをつけて長時間音楽を聴いている人は多い。
「あんなに長いこと聴いていて耳は大丈夫なんだろうか?」と「耳栓」愛用者の自分は不思議でならない。
そうした経緯で長年、ピアノはどちらかと言えば敬遠気味だった。
そんな自分が「このピアノは延々と聴いていても耳が疲れない!?」と驚いたのが、ファツィオリだった。
今までスタインウェイの音に対して感じていた「煩さ」「えぐみ」「雑味」がない。
倍音の響きがまるで違うのだ。
でも私が「煩い」と思う倍音こそ、ピアノが好きな人にとっては至上の美音なのだと思っていた。
だから帝王的なスタインウェイの倍音に対してチャレンジャーが出現して、新たな響きのピアノが生まれるとは想像したことがなかった。
イタリアの小さなベンチャー企業がこれほど革命的なピアノを生み出したことに驚愕した。
「川崎」にしたブルース・リウのリサイタルだが、次第に疑問が浮かんできた。
「もし川崎はスタインウェイで、東京(初台)がファツィオリだったら?」
やはり後で地団駄踏んで悔しがるのは避けたい。
そう考えて、再度お願いして初台オペラシティのチケットも譲ってもらった。
1週間に2度もピアノ独奏のコンサートに行くというのは初めての経験だ。
結果として、2度ともファツィオリでの演奏を聴くことができた。
ブルース・リウの演奏は、ファツィオリの完璧な倍音の響きを堪能できる。
たぶん(ダンパー)ペダルの踏み方と、技術とセンスあふれるアーティキュレーションによって、このピアノの音色がいっそうすばらしく響いていると感じた。
リサイタルの構成も理知的で、ライブとしての盛り上げ方も(昨年同様)楽しかった。
また、前半のプログラムでは自分の大好きなフランス音楽、それもラモーを演奏してくれた。
フランツ・リストの作品は、スタインウェイのピアノ同様、というか「スタインウェイで演奏されたリスト」は、自分が最も敬遠してきたものだが、ファツィオリ×ブルース・リウのリストは何度も聴きたくなる。
でも今回一番の出来事は、川崎も初台も今まで座ったことがない程の良席だったことだ。
自然な体勢で演奏者がよく見え、なおかつ響きがすばらしく聴こえた。
「日頃の行いが良かったのかな?」
と一瞬考えたが、まったく思い当たることはない。
親族がどうやってコンサートチケットを入手しているのか知らないけれど、ありがたい誕生日プレゼントだった。
来週はいよいよ、3年待たされた文字通り「夢の」フィリップ・ジャルスキーを聴けるのが楽しみだ。