★この記事は以前 note にて公開していたものを再編集し転載しました★
2021年に開催された第18回ショパン国際ピアノ・コンクール優勝者ブルース・シャオユー・リウ(Bruce Xiaoyu Liu)さんについて、地元カナダ、ケベック州モントリオールのメディア「LEDEVOIR」2021年10月31日付の記事が伝えています。
執筆者はChristophe Huss さんという方です。
ショパンコンクール優勝後、各メディアが少々表層的で似た内容のレポートをしていたのとは異なり、地元メディアとして独自な内容となっています。シャオユー・リウさん(=ブルース・リウ)についてこれまでも見守ってこられたそうで、編集部の皆さんがファイナルの前に心配(応援)していた様子も述べられています。
長い記事ですが、原文のフランス語をGoogle 翻訳にコピー&ペーストすれば、英語でも日本語でも変換して読むことができます。
しかしながら正直、現在の性能の AI はこの美文を台無しにしながら、時々意味不明な日本語にアウトプットしています。
AI がこの記事をまだ正確に翻訳できていない理由は、文法や語彙を含めた各言語の特質や言語間の差異(ずれ)を認識し尽くせていないことに加えて、この記事の文章の場合、技巧を尽くしたフランス語の表現の豊かさと文体の格調高さにあると思います。
記事の執筆者 Christophe Huss さんをして「français cultivé 洗練されている/教養があるフランス語」といわしめたブルース・リウさんのコメントも、Google AI はなぎ倒して処理してゆきます。
ここではAI が雑に処理した訳文を修正した上で引用して紹介しています、
「」に入っているところがブルース・リウさんのコメントで、最後の一文は地の文と混じります。
(* "rester dans ma bulle(泡)"は "stay in my bubble" 「殻の中に閉じこもる」の意)
太字の箇所は日本語に訳すと全部「性格」「個性」を表す単語で、パラフレーズ(同じ単語の連続使用を避ける)に見えます。
しかし意味をよく考えて読んでみると(欧米語としては一般的な使い分けですが)ここでもきちんと使い分けられています。
①nature 元々の性質としてもっている性格
②naturel 実体として見える性質、見た目もひっくるめた性格
③personnalité (主に対人的)行動も含めた性格
ブルース・リウさんの言説は自然体で、気取った雰囲気ありませんが精巧さ、色彩とリズムが感じられます。
この後、20歳になって青春期を過ぎてダン・タイ・ソン先生の指導によってどのように変わったのか、「着る服」の喩えを使って説明しています。
なかなか秀逸な喩え話で、個人的にはブレーズ・パスカルやラ・ロシュフコーといったフランスの古典を連想しました。
特にわかりにくい点もなく簡潔でさらっと理解できてしまう内容かと思います。
けれども前述のとおりフランス語(欧州語)話者特有の細かい単語(nature, naturel, personalité)の使い分けがありますが、このパラグラフにも難しい単語があります。
それは「goût(グー)」です。
英語では「taste」で、元々の意味は「味」です。 食べ物の味について「おいしい」「おいしくない」という時に使うので、人類の歴史を考えると相当昔から使われている言葉です。
人類の歴史について格別詳しいわけではないのですが、人類は次第に複雑な思考をするようになり、抽象的なことを考えるようになります。
すると食べ物がおいしいかどうかを表す概念を他の事柄にも当てはめるようになります。ここでは記事のテーマに関係のある意味を2つだけ紹介します。
①好み、嗜好
例: 「あの人のバッグ好みだわ」「このドレスは趣味が悪いね」「このテイストちょっと違うかな」
現代でもよく使うと思いますが何かについて「好き」「嫌い」を表現する時に使われます。
さて話を元に戻します。
音楽家が演奏について「表現したいことが生まれ自分の好みができた時、教わったことと対立するかもしれない」と言う時、おそらくそれは単純な「好き嫌い」(①の意味)よりももう少し深い意味になると思います。
それは音楽に対する解釈の問題であり、スコアに向き合って自分の感性で考えて至った結論かもしれません。
それを踏まえて「goût」の意味を考えると、辞書的には次の意味も含んできます。
②審美眼、センス
①では単に「好き」「嫌い」の問題ですが、②は「好き」だけでなく「嫌い」なものにも適用できます。(少しずれますが、例えば「嫌い」なものでも審美眼によって批評することはできます。)
つまり、美に関わる鑑識眼(ものを見る目)という意味になります。
この定義はもちろん私が解明したわけではなく、フランス(語)の思想の歴史によって形成されたものです。昔「goût」の意味について真面目に考えた人々がいたわけです。
つまり16世紀ごろから「モラリスト」と呼ばれる思想家たちが「人間(性)とは何か?」ということを徹底的に考え始め、それがフランス文学(文化)のひとつの伝統になりました。
「考える」ことに対する彼らのこだわりは圧倒的で、「人間は考える葦である」と言ったのはブーレーズ・パスカル(1623-1662)ですがその著作のタイトルはズバリ『パンセ(Pensées)』(考えたこと)です。
ちなみにこの言葉は「人間は草みたいに弱いけど、考えることができるからすごい存在なんだよ!」というような意味です。
再び「goût」に話を戻しますと、私がこの言葉から連想したのはパスカルと同時期のモラリスト、ラ・ロシュフコー(1613-1680)の言葉です。
この人は「goût について」という考察を残してるのですが、A4一枚程の文に「goût」が22回も出てくるので相当「goût」に憑りつかれていたのでしょう。
つまりラ・ロシュフコーをはじめモラリストたちが「goût」という言葉をとことんまで考えたからこそ「美に対するセンス」として意味が浮かび上がったのです。
さて、なぜこの人物を紹介したかと言いますと、この方には「本物について(Du vrai)」という文があって、ブルース・リウさんのコメントと似通った考えを持っていたことがわかるからです。
上記のインタビューでは「その人が自分で選んだ服なら高級品だろうと何だろうとその人の『goût』が表れている」とコメントしています。
でもちょっと想像するとどうでしょうか。
例えば「ノンブランドの服を選んで着ている人」と「サンローランの新作で決めた人」を比べた時、世間の多くの人は後者の方が目立つしおしゃれだと思うはずです。
さて、ラ・ロシュフコーですが、彼は大貴族でしたがリアンクールという場所にある館に住んでいました。 一方、その時代の王族にコンデ公という人物がいて、その人はシャンティ―城という壮麗な城に住んでいました。
一般的に考えると、この場合どっちの城(館)が立派か? と言えば、多くの人はシャンティ―城だと思っていて、そのことをラ・ロシュフコーも知っています。
でもラ・ロシュフコーはこう言います。
昔も今も虚栄に満ちた世の中で、こうした信念をブレずに持ち続けるためには、内なる価値を心底信じていなければならないでしょう。
フランス語の「goût」について延々と述べてきましたが、個人的には17世紀の古典の精神(esprit エスプリ)が21世紀の若い芸術家に脈々と引き継がれていると感じるのですが、いかがでしょうか?
フランス文化である「考えること」へのこだわり、「理屈っぽさ」には脳がぐったり疲労します。 日本の文化にはここまで考えることに対するこだわりはあまり見られません。
時々思うのですが、相互補完なのかフランス文化に憧れを持つ日本人はこのように言葉を積み上げてゆく(思考する)のが好きなことが多く、逆に日本が大好きなフランス人は思考(論理性)よりも感性を重んじる日本文化に惹かれることが多い気がします。
「考えるよりも感じる・・・」
これどこかで聞いたことありませんか?
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“Don't think...Feel!”
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ブルース・リーさんの名言じゃないですか!
最後のオチに持って行くまでどうなるかと思ったのですが、どうにか力技でねじ込んだのでここで終わらせていただきます。
(了)
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