私は正規の学校教育はほぼ日本で受けたし、「日本語」は専門分野にかなり近い。
でも仕事人生では長い間、外国語かつ海外企業(絡み)だった。
だから商習慣とかビジネス言語においては日本のそれとは馴染みが薄い面があった。
しかし、つい最近になって日本語で事務手続きのやり取りをする中で、日本語の読解を間違えたり、理解できないという「超絶恥ずかしい経験」をしてしまった。
今春から勤務する大学講師職の、契約上のメールのやり取りでだった。
日本語は、古典でも現代語でも「主語」がない文が多い。
また尊敬語や謙譲語が駆使され、直接的ではない表現も多い。
さらに読解を複雑にしているのは、単数・複数の違い、代名詞、冠詞がない、などの要因もある。
「何?どれ」を指しているのか、よくよく文脈や状況を推測していかないと分からないことが多い。
そんなこんなで私は契約書のやり取りにおいて、返送すべき書類を自分用だと思ってしまったり、同じ様式の複数書類の用途を誤解してしまったりと、散々だった。
そんな状況の中で本当に混乱してしまった。
海外との取引ではよくありがちな「これって何か詐欺っぽいやつではないのか?」という、まったく相手には謂れのない疑いをかけ、疑心暗鬼に陥ったりもした。
こうやって「契約書」に神経質になること自体、英米的な発想だと思う。
日本は何と言っても「口約束も契約のうち」というルールなのだ。
日本で、じゃなく日本語でビジネス上のやり取りをするのはかなり難しい。
ちょっと前だが、ビジネス日本語においては「ご苦労様」は目下にしか使ってはいけない。
同等以上には「お疲れ様」と言わなくては「失礼」になる、という妙なビジネスマナーが叫ばれるようになった。
日本語や日本語の歴史を研究している人なら周知だと思うが、そんなマナーの「学問的」根拠はどこにもない。
どこかのマナー講師が言い出したことなのかもしれないが、日本語には変なマナーが多すぎる。
最近は外国人も増えてきたので、「難解すぎる日本語」をもっとわかりやすく表記するという動きもあるようだ。
「ご自由にお持ちください。」→「ひとりひとつまで。」
でも、ずっと誰も持ち帰らなくて「困ったな。ひとつも減っていないよ」という場合には、誰かにごっそり持っていってもらった方が良いに決まってる。
そこらへんも「空気を読んで」行動することが必要なのである。
私が大失敗した事務手続きのやり取りの中で、ひときわ日本語が分かりにくい相手がいる。
もちろん「文脈が読めていない」私が悪いに決まっている。
それにしても、ちょっと逸れた何気ない会話の時ですら、要旨がまともに理解できないのだ。
逆に、私が「この人の日本語はグイグイくるわ」と思う人には共通点がある。
やはり(自分と同じく)外国語(欧米語)を使う環境にある人の日本語だ。
一文が短いし、主語が何なのか、何が言いたいのかもすっきりよく分かる。
この認識をさらに堅固にしたちょっとした出来事がある。
数年来、興味のあるジャンルについてつづっている、あるブログがある。
外国語とはまったく関係のないブログなのだが、たまに読ませてもらっていた。
文章が分かりやすく、すごく読みやすい。
数年ほど経ってから、たまたまある記事でブログ主が「イタリア語」が堪能だと分かった。
文体に親近感を持った理由が分かった気がした。
イタリア語もやはり主語が省略されている言語だ。
しかし動詞の形に主語が示されているだけで、日本語において主語が省かれるのとは違う。
コンパクトで効率的で、大好きな言語だ。
日本語は複雑で、難解で、フラストレーションがたまるものの、日本人として生涯取り組んでいくつもりの言語だ。
はっきり言って、日本語で何か書いている時の自分は限りなく頭が混沌としてくる。
書いたり喋ったりしていても、どことなく消化しきれない何かがある。
それが何なのかをずっと探し続けている。