老後ライフに必要なのは「諦め」と「刺激」かも

私は氷河期世代だが、自称「早く生まれすぎたZ世代」なので、平成・昭和の価値観にはなじめないことが多かった。

令和の今は、万事心地よく生きている気がする。

Z世代と年上世代を比較して、ほぼ例外なく感じるのは、

「高齢者はしつこい人が多い」

という現象だ。

別の言い方をすると、

「異常に諦めが悪い」

ということだと思う。

 

先日も、団塊世代と思しき男性が、見苦しいほど他人に粘着しているシーンに出くわしてしまった。

自分語りや偉そうな説教を人に押し付けるのはみっともない。

そもそも頼まれてもいないアドバイスほど役に立たないものはない。

「もうしつこいな。諦めた方がいいぞ!!」と心中で思った。

昭和・平成の価値観では

「石の上にも3年」

「決して諦めるな!」

「あきらめたら試合終了!」

という価値観が巧妙に刷り込まれたからなのだろうか?

でも、粘り強いことって、美徳なんだろうか?

 

今だったら、

「3年も結果が出なくて不幸になるなら、次を試してみようよ」

「あなたが粘着してることで、周囲に迷惑かかってない?」

「諦めたって、大丈夫。必ず次はあるから」

そう思う方が幸せになれる気がする。

 

ところでしつこいタイプの人、粘着質な人というのは、「失いたくない」願望があまりにも強い人なのかもしれない。

しがみついていなければ、自分の「平常」が保てない精神状態だと想像する。

「何かを失う不安」と「保身」の感情が人目も憚らないほど強まるのだろうか?

でも、ほとんどすべてのスポーツにおいて「守り切る」立場ほど苦しいものはないように、人生も然りと思う。

むしろ「ちょっと足りない(=負けている)」方が、失うことを恐れてビクビクするよりずっといい。

 

私自身にとっては「諦める」という行動は、とてつもなく「ラッキー」なことだ。

なぜかと言うと、諦めることによって潔くなり、潔くなると行動力が増し、行動力がアップすると直感も冴え、結果、新たな体験のチャンスに恵まれるからだ。

そして、ここからがもっとすごい。

新たなる物事との出会いは、強烈な「刺激」だ。

「刺激」がまったくない生活をしていたら、人間はほとんど脳を使わなくなり、行動力も減退し、退屈したり、生きているのが虚しくなったりすることもある。

 

3年半前、コロナ禍を機会として「プレ老後」を想定して生きるようになった。

生活の新陳代謝が異常に低下したという意味においては「修行」のような日々だった。

一番恐ろしかったのは、「刺激」が不足してきた(=脳が活性化しない)のに、自分でまったく気づかないような時がままあったことだ。

現在は自由に動き回れるようになったので、脳が欲しがる刺激

=想定外の出来事

と出会うのが、また楽しくなってきた。

 

本当にいつの日か「老後」が始まるのか、その前に死んでしまうのか、そもそも「老後」というものが存在するのか、よく分からない。

けれども、常に脳を活性化させ、意欲を持って、惰性じゃなく生きていくには「刺激」は重要なファクターだ。

刺激を得るには、新たな出会いが必要で、新たな出会いを得るには、それまで心の部屋を埋めていた何かを捨てる(=諦める)のが肝心だと思う。

「将来、保身にかられたしつこい高齢者になりませんように。」

「何かにしがみつかず、潔く諦めて、新しい物事を出会って、脳が活性化されますように。」

明日は久しぶりに明治神宮に参拝して、そう願おうと思う。