趣味は断然「やる」方が楽しい

秋の連休は相方の希望で「乗馬漬け」の予定だったが、大型台風の到来によって最初の連休の楽しみは2日目から「ピアノ」「読書」そして「『鎌倉殿』を観る」に変更になった。

日本列島を縦断するとの予測だが、各地で人的物的被害が避けられることを天に祈るしかない。

 

さて10年以上前の話だが、うちにはよくいろんなお客さんが来ていた。

互いに初対面のお客同士も、酒の力もあってか、やがてお喋りして打ち解けてきていつも楽しい時間を過ごしたが、たまには困ったこともあった。

例えば、初対面の日本人に向かっていきなり政治的な話題(日韓の歴史的問題など)を振ってくる、あまり酒に強くない、そして空気の読めない(読まない?)フランス人などだ。

そういうことで雰囲気が悪くなった時もあったから、以後は双方にでたらめな通訳をして会話を「調整」することもあった。

でも個人的にキツかったのは人に延々と「趣味を語る」タイプの人だった。

当時の客人に、ある分野の若手研究者がいて、ちょっと変わった分野の専門だった。

他のお客もその分野に興味津々だったので、専門家に会って話が聞けるのを楽しみにしていた。

でも、本人は酒の入った場で仕事の話をするのを好まなかったのかもしれない。

逆に話したくてたまらないのは、趣味のクラシック音楽だった。

趣味とは言っても、自身は音楽をやっていない「聞き専」で、スイッチが入ってお気に入りの演奏家について語り出したら止まらない。

そんな時、その場にプロであれアマチュアであれ音楽を「やっている or やっていた」人が同席していると、感心するほど場がしらけてしまうのを何度も目撃した。

 

少し話は逸れるが、昔「文学研究」をかじっていた時、よく指導者たちから「印象批評をするな」というようなことを言われていた。

要するに、研究者(の卵)としてしたり顔で「感想文」を垂れ流すなという教えだ。

楽器や音楽の技術や実技を離れて、誰かの演奏についてポエムのごとく言葉を弄するのは、この「印象批評」に近いと思う。

人に向かって語りながらますます高揚し自己陶酔していくから、周囲がドン引きしてしまうのだ。

そんな出来事もあって、指揮者の大友直人氏が日本のクラシック音楽「評論」について手厳しい提言をされているのを読んで深く首肯した。

president.jp

これから「老後ライフ」に向けて基盤を作っていく上で、批評家さながら他人の土俵を「語っているだけ」の人たちには、正直あまり憧れない。

対して、音楽でも何でも、自分で「やっている」人たちはものすごく楽しそうで輝いて見える。

人生の先輩として(上記記事の大友氏の言葉を借りれば)「背中を追いかけたくなる」のはそういう人たちだ。

他人の権威にすがって自己肯定感を得るのとは違って、しっかりと自分のエネルギーで立ち、躍動しているのを感じる。

これには昔、短歌をやめてしまった後悔の念もまじってはいる。

prerougolife.hatenablog.com

もちろん私にも、自分ではやらずに「鑑賞」しているだけの趣味はある。

例えば、大相撲とか野球 etc. は生まれてこのかた、やったことがない。

「死ぬまでに一度だけでも」体験したいと思っているが、ミドルエイジの未経験者に、相撲や野球をやらせてくれる場所が存在するとは思えない。

もうチャレンジできる可能性が限りなくゼロに近いことは他にもあるだろう。

でもこれからの人生、いろいろな趣味を「そこそこ」渡り歩きながら、「下手の横好き」だとしても、やっぱり何かを「見るだけ」「聴くだけ」ではなくて「やる」ことに活動の重心を置いていきたいと思っている。