はじめにちょっと書いておきたいのは、本記事にはいかなる「政治的意図」もないという点です。
私が運営している他のブログ云々については記事を改めるとして、あらゆるブログ記事において「政治的な含意」も排除してきたつもりです。
さて、そう前置きした上で、最近テレビで鈴木エイト氏という人を知った。
話術が洗練されていて論理的だし、感情が抑制されていて淡々と話すところが気に入った。
なかでも「(政治家と某団体の関係性は人によって)濃淡がある」という表現が白黒思考とは一線を画しているし、思い当たるふしの多い話でもある。
「ペラペラ」とは何ぞや?
私は氷河期世代なので苦労しながら細々とだが、外国語を使う仕事をしてきた。
メインは英語でサブがフランス語、時にはイタリア語やドイツ語が少し加わることもあった。
仕事を始めた時のスキルはこちらの記事に書いたとおりだが、今でも自分の「身の程」は分かっているし、人様を騙す気もない。
でも、外国語と関わりのない日本人に仕事の話をすると「ペラペラなんですね?」とよく言われる。
この「ペラペラ」という言葉はすごくモヤモヤするし「胡散臭い」と感じる単語のひとつだ。
そして実際のところ「英語がペラペラ」とか「英語ができる人」の実態とは、鈴木エイトさんの表現を拝借すれば「濃淡がある世界」でしかない。
でも、そう言っても「腑に落ちた」という顔をする人はあまり多くない。
「ペラペラ」は判別できない
繰り返しだが「ペラペラ」とは「外国語をモノにして操っているように見える」という単なるイメージだ。
断絶した宮家の「ご落胤」を名乗って結婚披露宴のご祝儀を詐取したという、かの「有栖川宮詐欺事件」(2003年)という奇想天外な話にも少し似ていると思う。
人間は、真偽(能力)のほどが判別不能なジャンルで、自分の想像の範疇を超えていると、思考停止して「すごーい」と信じてしまうのかもしれない。
子どもの頃、タモリさんの「インチキ外国語」というのが流行っていた。
あのネタがウケるのは「インチキ」と「正しい(真の)」の違いが「判別できない人」に限定される。
私の場合、フランス語やイタリア語などのヨーロッパ語については、タモリさんの「インチキ」はただ「ナンセンス!」と思うだけだ。
一方、韓国語やベトナム語、アラブ語など自分がまったく分からない言語の「インチキ」だと、本当にその言語だと信じそうだし、タモリさんすごーいと思う。
「ペラペラ」をビジネスにする人
「ペラペラ」という看板は胡散臭いものの、外国語能力とは「濃淡」だと広く知られていない日本では、けっこう集金力のあるビジネスツールだ。
昔住んでいた近所に「外国語スクール」があった。
経営者は日本の有名大学だけでなくアメリカの大学にも正規の留学歴のある人だった。
多角経営でフランス語の個別指導もやっていたので、検定試験の前に少し通ったことがある。
ある日、そのやり手経営者に何気なく話しかけられたことがある。
「僕はフランス語は全然できないんだけど、単語も英語とはだいぶん違うよね?ほら『疲れた』とか fati ...? fatig...? とか言うでしょう?」
たぶん英語の「I am tired.」はフランス語では「Je suis fatigué/fatiguée.」だと言いたかったのだろう。
でも英語で「疲労」は「tiredness」だけじゃなくて「fatigue」だってよく使われるのだ。
もちろん英語の語彙数が想像を絶するほど多いという事情はあるが、いわゆる「ペラペラ」で立派な経歴がある人でも、こういうことはよくある。
「ネイティブ」の集金力
また「ネイティブ講師」は日本ではすごく人気があるが、ネイティブだから良いわけでもない。
そのスクールのフランス語講師はなかなか面白い人だったが、ある日急に代行となり彼の「友だち」がやって来てレッスンをしたことがあった。
「大統領選挙」がテーマだったせいか「élire(選出する)」という動詞が会話に出てきた。
「選ばれる(当選する)」という時は受動態になって「élu」という過去分詞を使う。
だが、当時私は不慣れだったので唐突に「私たちは選びます」という時の活用(直接法現在1人称複数)が分からなくなった。
目の前の生粋のフランス人に「何だったっけ?」と言ったら、彼も困り顔になり「j'élis(私は)...tu élis(君は)...」と唱え始めた。
日本語だったら(人称変化ではないが)「選ば、選び、選ぶ、選べ...」みたいな感じだ。
でも、何度やってもなぜか「nous(私たちは)」の所で止まってしまう。
結局「nous élisons」が思い出せなくて、2人でいっしょに電子辞書をひいた。
代行の先生は「いつも過去分詞でしか使わないから...」とフランス人らしく言い訳をしていた。
でも、こんな初歩の初歩の活用が思い出せないネイティブ講師って?と正直、思った。
マルチリンガル(多言語)スクールのこういう実態は珍しくない。
騙されても気づかない
「ペラペラ」という言葉は、自分が子どもの頃から存在していて意味やニュアンスも今も当時とまったく変わっていない。
高校時代の先生方は「10~20年後には日本でもみんな英語を使うのは当たり前になる」と仰っていたが、ふたを開けてみれば、ノストラダムス並みの大予言だった。
日本で英語が使われないのは、日本社会が基本的にほとんど変化しておらず、英語を使う必要がないからだ。
そして「英語スクール」というビジネスもあまり変わっていない。
「英語」だけに限定しているのは、「フランス語」「イタリア語」などは人口も極端に少ないまさに「貴族趣味」なので、たいしたビジネスにならないからだ。
知人の元大手広告代理店社員が、外資大手SNS企業に転職したので、英語力を付けたいと思って費用がトータル50万円の英語スクールに通ったそうだ。
しかし結局50万円の成果はなかったので憤懣やるかたなく、最後の方では不満をスクールにもぶつけてしまったそうだ。
「体験レッスンの後のカウンセリングで『うちのスクールに入れば、今までになかった間違いないメソッドだって言うから、そんなすごいんだ!って信じちゃって...」
こういう場合、彼とは違ってほとんどの生徒(お客さん)はスクールに文句を言わない。
なぜか「自分が頑張らなかったせいだ」と自責する人が圧倒的だ。
「50万円で英語が『ペラペラ』になる夢のメソッド」が買えると思った方が悪いのか、そう言って売り上げを伸ばしているスクールが悪いのか?
やはり白黒で考えるのは妥当ではないだろう。
語学力だけじゃなく、世の中は「濃淡」でできていると思うからだ。