必ず眠くなるグレン・グールド

子どもの頃、不眠で悩み、悩んで不眠になっていた親が、 J.S バッハのゴルトベルク変奏曲(Goldberg-Variationen)」のCDを聴いていた時期があった。

かのグレン・グールドのピアノ演奏だった。

どうして親が「ゴルトベルク」を聴いていたのか分からないが、たぶんこの音楽が「不眠症に悩む貴族のために演奏された」という言い伝えがあるからだと思う。

しかし今インターネットで簡単に検索した情報によると、不眠症に悩んでいた伯爵は当時14歳だったそうで、本当に不眠に悩んでいたのか怪しいらしい。

私の親は「たしかによく眠れる気がする」と言っていたから「暗示」の力は大きいと思う。

さらに私自身も同じ、というか更に強力な「催眠」にかかってしまうようで、今でもこのCDをかけると十中八九眠りに落ちてしまう。

それでも最後のちょっと手前で目が覚めるので、最初と最後だけはちゃんと聴いている。

ゴルトベルク変奏曲」はピアノを習っていた頃も弾いたことがないので、私にとってはいまだに全容がよく分からない夢のような曲だ。

 

コロナ禍になって、以前よりはピアノに触ることが多くなったのだが、メインはずっとバッハの「インベンションとシンフォニアそして時々ラモーを弾いている。

まったくの自己流で好き勝手にやっているだけだが、時々 Youtube でプロフェッショナル、アマチュア問わず色々な人の演奏を聴いて勉強している。

ある日、グレン・グールドの「インベンションとシンフォニア」を見つけて聴いてみて、遅まきながら感嘆した。

2声と3声セットにした曲の順番にも感銘を受けて、グールドの弾き方を真似するつもりは到底ないが、順番は真似したりしている。

 

グールド盤の曲順がそうなった事情は知らないが、作品の「順番」というのはどんなジャンルの芸術にとっても重要なのではないかと思う。

日本の古典である和歌集、例えば新古今和歌集などでも、個々の和歌を「どう並べるか?」「どの歌を選ぶか?」と同じくらい重要だ。

新古今和歌集』の例だと、藤原定家をはじめものすごいハイレベルな歌人たちが審美眼を駆使して「配列」を考えている。

しかしそこにいちいち「口出し」をして業務を逆走させるなどして、元々怒りっぽい性格の定家先生をイライラさせていたのが後鳥羽上皇だった。

『鎌倉殿の13人』ではこの「クセの強い」後鳥羽上皇尾上松也さんが「濃いめ」に演じている。

個人的にはこの後鳥羽上皇と3代目の鎌倉殿となった源実朝を和歌を通して「つなぐ」役割として、藤原定家が登場するのかどうかちょっと期待している。

 

話が逸れたが、グレン・グールドの「ゴルトベルク」を通しで聴こうとすると、なぜか必ず眠くなってしまうのと同じ現象が「インベンションとシンフォニア」でも起きることが最近わかった。

これはつまり私にとってグレン・グールドは眠くなる」ということなのかもしれない。

あるいは昔「ゴルトベルク」でかかった「暗示」と「催眠」が「グールドの奏法」を通して今もまだ利いている状態なのだろうか?

仕方がないので、2~4曲ずつ眠気に襲われる前に少しずつ聴いている。

私は今も昔もピアノよりも声楽の方が好きで、現在は自分ではやっていないが歌やオペラを聴くのが好きだ。

ピアノ同様、バロック時代の作品が好きでヘンデルのオペラをよく聴くが、どれも演奏時間は数時間以上なのにめったに眠くなることはない。

しかし、よく考えてみると「必ず眠くなる」のはグレン・グールドだけではない気がしてきた。

私はフランス文学が好きだと思っているが、実はかの有名なマルセル・プルースト失われた時を求めてを読んでいない。

正確には「読み始めると必ず眠くなって挫折する」を繰り返しているので、第1篇の『スワン家のほうへ』の半分くらいまでは何度も読んでいる。

言い訳をするつもりはないが、この小説も「不眠症」の伯爵のための「ゴルトベルク変奏曲」と同じように「眠り」「不眠」が重要なモチーフになっている。

だからか知らないが必ず寝落ちしてしまう私は、きっと死ぬまでに『失われた時を求めて』を読破することはできないだろう。

ただ、眠い時にはどうしようもないのは自分だけの経験ではないと思う。

徒然草の中にこんな話がある。

ある人が「念仏を唱えると眠くなって怠けてしまうのですがどうしたらいいでしょう?」法然上人に尋ねた。

すると法然上人は「目が覚めている時に念仏を唱えればよい」と答えたという。

これについて吉田兼好「いと尊かりけり(とても尊い)」とコメントしている。

見苦しい足掻きが嫌いな兼好さんらしいシンプルな意見だと思う。

私もこれにならってこれからも「眠くない時にやれることをやろう」と思っている。