ホリエモンと乗馬で人生が変わった理由

昔出会ったこの馬には思い出がある。

以下の話に出てくる馬の中の一頭だ。


とっぴな思いつきだったが昔、考えたことがある。

氷河期世代として、現在の社会通念からは到底非常識といえるような社会生活をしていた頃だ。

ちょうどその頃、堀江貴文氏のような派手な成功者が脚光を浴びていた。

堀江氏と自分はあまりにも違っていた。


しかし、私は妙なことを考えていた。


「自分と堀江氏は何が違うのだろう?」と真面目に考えたのだ。

能力とかジェンダーとかを超えて、根本的な要素まで比べてみた。

そして更に「もし自分がホリエモンだったとしたらどうだろう?」と真面目に考えた。

ドラマやアニメでよくある「入れ替わりもの」みたいな設定だ。

そうしてイメージしているうちに「自分とホリエモンの違いは、究極的にはものの考え方の違いだ」ということに気づいた。

もっと言えば「考え方が違っているに過ぎない」という結論に至った。


妙な話だが、この時の結論によって世界観が変わり、徐々に人生が変わったと言っても過言ではない。

おもしろいことに、長年続けている「乗馬」によってもホリエモンとの「入れ替わり」シミュレーションと似た現象を目の当たりにしていた。

どういうことかというと「馬」は「人間」が意思した通りの状態になるという事実だ。

例えば、ある乗馬クラブのオーナーは「馬は人をナメる」という。

するとそこの馬は本当に人間をナメる。

別のクラブのオーナーは「馬はナメるなんてない。人間の乗り方が悪いだけだ。」という。

確かにそこの馬は人間をナメないし、乗り方が正しければ思い通りに走る。

ある先生は馬をすごくかわいがって甘やかす。

すると馬たちは人間に甘え、かわいがられる。

極端に人当たりの悪い傲慢な指導者がいる。

すると馬は極端に神経質でビビり症になる。

使い物にならないと引導を渡され、別の大らかなクラブに転籍した馬は、やがて子どもを乗せても大丈夫ほどおっとりした馬になる。

こうして「馬はそれぞれオーナーがこうだと言った通りになる」という赤裸々な現実を見て、目から鱗が落ちるように合点した。

馬が人間が決めたとおりの状態になるとしたら、人間も(自分も)自ら決めたとおりの状態になるのではないかと考えた。

それまであまりにひどい氷河期世代としての状況は、自分の意思とは関わりないと思っていた。

あまりにもひどい人間に出会うことも。

しかし本当は悪循環に陥っているうちに、知らず知らず「うまくいかないのは当たり前という考え方」が染み付いて自分の一部になってしまったのではないか?

そうしていつしか「不本意な現実」は自分の「意思」にすり替わってしまったのかもしれないと考えるようになった。

この気づきは、ひとつの転機になった。

いつの間にか見失った人生の手綱(決定権)を手中に取り戻す決意をした。

そして「馬を幸せにするように」自分を幸せにしなければならないと決意した。

それから長い年月が経った。

相変わらずホリエモンのようにはなっていない。

しかし、今はほぼ自分が決めた世界に生き、自分が決めた生き方をしていると思う。

ひどい出来事やひどい人間に遭遇することもなくなった。

そういうのは拒絶すると決意したからだと思っている。

自分の方はそれくらい変わったが、勝手に引き合いに出した堀江氏の方も以前とはそれなりに変わったのではないだろうか。

私は今でも何かしら「非情な選択」も止むなしと判断した時には、過去の堀江氏のイメージで冷徹に決断するようになったのだが...

「己の考え方」というのは、自分ではなかなか気づきにくい。

特に、似た環境で似た考え方をしている人たちの中にいると気づきにくい。

しかし考え方ひとつで、がんじがらめになったりもするし、自由になったりもする。

そして「己の考え方」はいかなる時も自分だけのものであり、他者の意思でコントロールされてはならないものだと思っている。