フランス語ポエムの黒歴史の呪い

最近では珍しく仏文テキストを修正する用事があって、スペルチェックで(全)アクサンの不備を修正しようとしたら、Word が働かなくて焦っている。

10数ページを手作業でコツコツやるなんて非効率すぎるし自信がない。

昔、仏検準1級を取ってから英語に加えて仕事で使い始めてからは腰を据えた学習をしていない。

今も万事「そこそこ」のぬるま湯に浸かって生きているので、あまり向上心はない。

でも全般的に問題があるのは分かっているから、どこかでテコ入れした方がいいとは思っている。

そんな時にこういうトラブルが起きていやな汗をかくと妙な記憶がよみがえる。

 

仏検の直後はまだ学習意欲も強かったので、わりとよく勉強していた(ような気がする)。

忙しくなって勉強をやめるまでの数か月ふ間にちょっとした事件があった。

それまで指導を受けていたフランス人の先生に試験後も引き続きエッセイ(フランス語の場合は論述文)の添削などしてもらっていた。

ある日、なぜそういうことになったのか覚えていないが、フランス語で詩(ポエム)を作ってみようということになった。

私は昔「短歌」や「和歌」をかじっていたが、フランス文学にも伝統的な詩の形式があることを教わった。(ヨーロッパ皆似たような感じ)

prerougolife.hatenablog.com

和歌だと「見渡せば/花も紅葉も/なかりけり~」*おなじみの5・7・5・7・7の音節になる。

*「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)「新古今和歌集

フランスの韻文詩の場合も似た感じで1行の音節(syllabe)数の決まりがある。

"La Nature est un temple où de vivants piliers" *という詩句の例では、各行12音節(syllabe)に揃えなくてはならない。

“La/ Na/tu/re est/ un/ tem/ple où/ de/ vi/vants/ pi/liers”

  1    2    3   4      5     6       7      8    9   10     11   12 

*シャルル・ボードレール悪の華交感(Correspondances)」「自然はひとつの神殿で、生きた柱が~

他に、中国の詩と同じように「韻(rime)」を踏むなどのルールがある。

マニアックなので省略するが、私はフランス語の韻文詩にハマってしまった。

一種の「パズル」だったからだ。

私は本格ミステリが大好きだったので「パズル」も大好物だった。

フランス語のパズルというべき韻文詩を次々と作っていた。

あまりにも楽しかったので、ふと思い立って先生に感謝の気持ちを込めつつ、少しふざけて「ありがとう!」のソネ(Sonnet 十四行詩)を作って見せた。

しかしそれはちょっとした悲劇だった。

先生はそれを独自に解釈して、なぜか「愛の告白」と受け取ったのだ!

なぜそう思い込んだのか分からない。

他のいくつかの出来事を思い返すと何かと「勘違い」しやすいタイプの人だったようだ。

でも当時は非常に気まずい雰囲気になってしまい、心底後悔した。

先生は言葉で何か言うわけではないのだが、明らかに表情が「妙な感じ」になっている。

こっちから「あの、もしや何か勘違いしていませんか?」と切り出すのも変だし、本当に困ってしまった。

「フランス語」と「ポエム」

私にとっては「役に立たないもの」の象徴だ。

まず「フランス語」は「日本語」同様、微妙な言語だと思う。

日本語は敬語表現が過剰に複雑なのが難点だ。

フランス語は(他の欧州語もそうだが)書き手が男なのか女なのか「性」が明示されるなんてジェンダーフリーからは程遠い。

その点日本語は「性」も「数」もはっきりしないすごい言語だ。

でももはやフランス人もグローバルで仕事をする時は英語を使うのがスタンダードな時代だ。

マクロン大統領もアクセントは強いがバリバリ英語をしゃべっている。

それにインターネット上の言語は圧倒的に英語だ。

フランス語や日本語などのマイナー言語はネット優位の時代にあって今後ますます淘汰されていくだろう。

 

ところでフランス語にも増して「ポエム」はもっといただけない。

調子に乗って余計なことをした自分がダサすぎて、今思い出しても恥ずかしい。

あの事件以降、ポエムはひとつも作っていない。

ポエムが仕事の役に立ったことも一度もない。

でも今、何となく思うことがある。

役に立たないスキル。

それを「貴族趣味」というのではないか?

日本の国語教育において「古文・漢文」は必修から外されようとしているらしいが、時代の潮流からみれば自然だと思う。

「古文・漢文」をみっちり勉強した氷河期世代の私は、それらが本当に現実ではまったく「役に立たない」ものであると断言できるからだ。

そして「我が黒歴史はいつも「役に立たないもの」で彩られている。